第二十五章 教室と、まだ名のない感情
学校というところは、戦争中も戦争後も、たいして変わり映えのしない顔をしているらしい。変わるのはそこに集まる人間のほうで、建物は相変わらず、半分崩れていようが、黙って子どもたちを呑み込むだけだ。
少年は、その崩れかけの校舎の前に立っていた。
屋根の一部は穴があき、窓ガラスはほとんど割れている。割れていない数枚にだけ、空の青さが妙に鮮やかに映っていた。戦争は、どうでもいいところにだけ青空を残す。残してほしいところは、きれいさっぱり燃やすのだから、性質が悪い。
正門という名の鉄柵は歪み、斜めに傾いていた。少年はその隙間から中に入った。砂利と瓦礫が混ざった校庭には、すでに何人か子どもが集まっている。あちこちで声が上がるが、その声は、まだ“笑い声”とは呼べない。一度、喉に死の味を覚えた子どもたちの声は、すぐには昔の高さに戻らない。
「……来たね」
少女が、教室の入り口の柱にもたれて立っていた。
いつもより少しだけ髪を梳いているように見えたが、気のせいかもしれない。少女は自分の身なりを気にする余裕なんかないはずだ。そういう余裕を「気のせい」と切り捨てなければ、戦争後など生きていられない。
「来たよ」
「よかった」
よかった、という短い言葉が、妙に胸に響いた。
生きていることに“よかった”などと、簡単にラベルを貼られたくない。死なずに済んだせいで、これから苦労して生きていかなきゃならないのだ。だが、そういう理屈を少年は口にしない。理屈を口にするほど、まだ大人ではなかった。そこが、救いでもあり、残酷でもある。
二人で教室に入ると、そこには机が十台ほど、ばらばらに置かれていた。焦げた跡がある机もあれば、脚が一本足りない机もある。黒板はひび割れ、端が欠けている。その欠けた部分にだけ、外の光がささやかな三角形を描いていた。
「座りなさい」
前の方で、痩せた男の教員が立っていた。
肩の線が落ち、軍服を脱いだばかりの身体は、まだ戦地の影を引きずっている。だが、胸には何の勲章もなかった。その代わりに、ひどくきれいな字で「一年」と書かれた小さな札が差してある。
少年は、教壇に一番近い机の端に腰を下ろした。少女はその隣に座った。
周囲には、顔見知りも見知らぬ子どもたちも混ざっている。誰もが妙に大人じみた目をしていた。戦争は、子どもから順に老けさせていく。老人になる前に死ぬ者も多いのだから、手っ取り早く“年寄りの目”だけ配っておくのかもしれない。
「よし」
教員は、教壇の上に古びた出席簿らしきものを置いた。
「今日から、ここを『学校』に戻す。まだ瓦礫だらけだが、学ぶには十分だ」
十分かどうかは、少年には分からない。
だが、“学校”という言葉を聞いた瞬間、自分が妙に居心地の悪い場所に来てしまったような気がした。戦争中、少年は学ぶという行為に縁がなかった。生きることと、食うことと、隠れることと、誰かを看取ることばかり覚えた。字もまともに書けないくせに、死体の匂いだけはよく知っている。そんな子どもが座るのに、教室という場所は少々上等すぎる。
「名前を、呼ぶ」
教員は、出席簿を開いた。
少年は身を固くした。
自分の名がここで読み上げられることが、急に怖くなった。
名前は、人間をこの世につなぎとめる鎖だ。
鎖を引かれると、逃げ場がなくなる。
教員は一人ひとりの名を読み上げていく。
返事は、どれも小さい。ある子は泣き出し、ある子は黙ったままうなずいた。
やがて、少年の番になった。
——だが、教員はその名前を呼ばなかった。
出席簿に、少年の名前など最初からなかったのだ。
戦争中、どこの誰として登録されていなかった者は、終戦後も「いないこと」になっている。役所の帳面に名前がなければ、存在しない。
「先生」
少女が手を上げた。
教員が顔を上げる。
「この子……その、名簿にないんですけど」
「そうか」
教員は、少年を見た。
その目には、戦地で命の数を数え続けてきた人間特有の、冷たさとも諦めともつかぬ色があった。
「名前は?」
少年は、口を開きかけてやめた。
昨夜、釜戸の前で考えたことが頭をよぎる。
「まだ言いたくない」と言えば、この場にいながら、どこにも属さないことができる。
だが、今日はなぜかそう言う気になれなかった。
「……」
喉がひりつく。
戦争をくぐり抜けてきたくせに、たった一言が出ない。
代わりに、少女が口を開いた。
彼女は、少年の本当の名前を知らない。
だから、ぽつりと言った。
「『石』って呼ばれてます」
教室に、微かな笑いが走った。
馬鹿にした笑いではない。
疲れ切った身体からやっとこぼれる種類の、かすれた笑いだった。
少年は、ばつの悪さと、奇妙な解放感の両方を覚えた。
石。
火打ち石。
灰の中に半分埋まったままの小さな石。
その名前なら、確かに自分に似合っている気がした。
「そうか。じゃあ、しばらくはそれでいい」
教員は出席簿の隅に、鉛筆で何かを書き込んだ。
“石”と書いたのか、“石の子”と書いたのかは分からない。
どちらでもいい。
少年は“正式な名前ではない名前”で呼ばれることに、少しだけ安心した。
授業が始まったといっても、墨も紙もろくにない。
教員は、黒板の残った半分に大きな円を描いた。
「これは“日”だ」
円の中に一本、線を引く。
「これは“目”だ」
日と目。
少年はその字を初めて見るわけではない。
看板や貼り紙で、何度も見てきた。
だが、自分の手で書いたことはない。
「書いてみろ」
板切れを配られ、子どもたちはぎこちない手つきでなぞり始めた。
少年も板の上に円を描く。
手が震え、線が曲がる。
日とも目ともつかない形になった。
隣で、少女が同じ字を書いている。
彼女の線も決してきれいではない。
むしろ、どこか荒っぽく、ところどころ力が入り過ぎている。
それでも、ちゃんと「日」に見えた。
少年は、その違いがどこにあるのか考えた。
考えても分からない。
多分、戦争中、少女は一度くらいは学校に通ったことがあるのだろう。
少年にはない「経験」の差が、線に出る。
「上手だな」
教員が、少女の板を見て言った。
少女は、少しだけ照れた顔をした。
人間は、たとえ死体の山をくぐり抜けてきても、褒められると悪い気はしないらしい。
少年は、その横で板を握りしめた。
「石、おまえのは……まあ、これからだ」
教員は笑った。
少年も、仕方なく笑った。
笑いというのは、便利な逃げ道だ。
笑っておけば、とりあえず場は持つ。
午前中の授業は、それだけでほとんど終わった。
字を二つ覚え、声を出して読み、板に何度も書いた。
その繰り返しのあいだ、少年の指先は薄く真っ白になっていった。
粉になったチョークが、爪の間に入り込む。
昼前になると、教員は出席簿を閉じた。
「今日はここまでだ。明日も、来られる者は来なさい」
来られる者は。
その曖昧な言い方に、戦後の全てが詰まっていた。
来たい者、ではなく、来られる者だ。
金も家も足も、何もかも揃っている者だけが学校に来られる。
それでも、教員はそう言うしかない。
教室を出ると、昼の光が校庭に溜まっていた。
瓦礫の間を駆け回る子どもたちの影が、いくつも重なり合う。
少女が少年の袖を引いた。
「お腹、減ったね」
「……減った」
「何か、ある?」
「家に戻れば、湯なら沸かせる」
それは“ご馳走”と言える代物ではなかったが、湯があるだけましだ。
湯は、ただの水より格上だ。
火を一度くぐったものだけが持つ温度がある。
二人で釜戸のところに戻ると、灰は朝よりも少し乾いていた。
火打ち石を手に取り、少年は何度も叩いた。
火花が散り、紙くずに移り、やがて細い炎が生まれる。
少女は薪を足しながら、その様子をじっと見ていた。
「字、むずかしかった?」
「むずかしい。けど……嫌いじゃない」
「どうして?」
「線を書いてると、なんか……生きてるみたいだから」
自分で言っておいて、少年は少し馬鹿らしくなった。
線を一本引いたくらいで、生きている実感が得られるなら、苦労はない。
だが、実際に板の上に“日”を書いたとき、何かが少しだけ変わった気がしたのも事実だった。
炎が釜の底を舐め始め、水面が揺れる。
やがて湯気が立った。
少女が器を手に取り、湯をすくう。
「これで、また一日、生きられるね」
少女は笑った。
「一日分だけかよ」
「一日ずつでいいんだよ」
少年は答えずに、湯を口に運んだ。
舌が少し焼ける。
それでも、冷たく濁った井戸水をそのまま飲むよりは、ずっとましだった。
湯を飲み終えると、身体の芯がゆっくり温まり始める。
腹の底に、石ころほどの小さな安心が沈んだ。
それは、魚の腐った重みとはまるで違う。
“生きるための重さ”だった。
ふと、学校で書いた字を思い出した。
“日”と“目”。
日と目を並べると、“白”になる。
白いご飯。
白い壁。
白い旗。
少年にとって“白”は、いちばん遠い色だった。
今の自分の生活には、白などひとかけらもない。
あるのは灰色と黒と、濁った茶色ばかりだ。
だが、黒板の上で教師のチョークが“白”を描いたとき、少年はほんの少しだけ、その色を信じてみてもいいかもしれないと思った。
夕方、丘に上がると、海が薄い光を返していた。
昨日よりも、波の音がはっきり聞こえる気がする。
耳が生きる音に慣れてきたのだ。
「明日も、行く?」
少女が聞いた。
「明日も。……たぶん」
たぶん、という逃げ道は残しておく。
明日、生きている保証などどこにもない。
それでも、明日を前提に「行く」と言うのは、戦争を生き残った者にとって、かなりの賭けだ。
「じゃあ、また明日。教室で」
少女はそう言って、ひと足先に丘を下りていった。
少年は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
胸の中に、名前のつかない感情がじわじわと広がっていく。
好き、でもない。
憧れ、でもない。
感謝、でもない。
ただ、“一緒に湯を飲める相手”がいるということ。
それだけが、戦後の少年にとって、最大の贅沢だった。
風が、丘を通り抜けた。
灰の匂いに、かすかな草の匂いが混じった。
少年は、釜戸と教室と、井戸と丘を結ぶ見えない線を、頭の中でそっとなぞってみた。
どの線も、まだ頼りなく震えている。
だが、震えながらも、確かに続いていた。
——明日も、この線の上を歩いてみよう。
少年はそう思い、灰の町へゆっくりと歩き出した。
生きるという行為に、まだ名前はついていなかった。
だが、その“名のない感情”だけは、確かに胸の奥で、静かに燃え続けていた。
(第二十六章につづく)

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