佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第二十三章・第二十四章

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第23章 骨の匂いと、沈黙の胃袋

 戦争が終わったと言われてから、もう三日が経った。三日という時間にどれほどの意味があるかは知らない。人間の心が三日で治るはずはないし、三日で未来が見えるほど人間は都合よくできてはいない。だが、町には「三日」という言葉に一種の魔力が宿っていた。三日で死体の匂いは変わる。三日で煮干しはふやける。三日で雨の湿気が布に染みる。三日というのは、何かが腐る単位でもあり、ようやく新しい匂いが生まれる単位でもある。

 少年は、今日も釜戸の跡に腰を下ろしていた。灰は相変わらずざらついて、指先にまとわりつく。その灰の中に、伯母の杖の破片と火打ち石が埋まっている。昨日、その上に指を置いたとき、ひどく冷たかった。冷たいものというのは、なぜだか“消えた後”の匂いがする。温かいものより、冷たいもののほうが存在感を放つ。人間も同じだ。生きている人間より、死んだ人間の方が重い気配を残す。少年は、その不公平さにうんざりしながらも、ため息すら出なかった。

 腹が鳴った。

 人間の腹は、戦争が終わっても終わらない。

 終戦は国家の事情であって、胃袋には関係がない。

 少年は、昨日もらった干し芋の小さな欠片を歯で慎重に千切った。干し芋というものは、存外に固い。戦時の干し芋はなおさらだ。噛むうちに、歯茎がじんと痛む。痛むというのに、噛まずにはいられないのが人間の悲しい性である。涙ではなく、唾液がわずかに滲んだ。

 ふいに、丘へ続く小道の方から、かすかな歌声が聞こえた。昨日、学校で誰かが歌い始めたあの歌だ。伯母が昔、小さく口ずさんでいた子守唄。歌というのは、どうしてこうもしぶといのだろう。家も人も焼け落ちても、歌だけは燃え残る。燃え残った歌は、人の耳にしつこくまとわりつき、しまいには涙の素になる。少年はその涙が嫌で、歌から耳をそらした。

 歌声に背を向けて歩き出した時、鼻先をかすめるような生臭い匂いがした。

 匂いとは、真っ先に魂の底に届く種類の記憶だ。視覚よりも、聴覚よりも、匂いのほうが早い。人間は匂いで戦争を思い出す。

 生臭い匂いは、必ずと言ってよいほど“死”と隣り合わせだ。

 少年は、匂いのほうへ歩いた。

 焼け落ちた倉庫の裏で、三人の子どもが何かを囲んでいた。

 地面に伏せられた鉄板の上に、黒い塊が乗っている。

「……何してるんだ?」

 少年が声をかけると、子どもたちは一瞬ぎょっとして顔を上げた。

 その目は、ひどく鋭く、しかしどこか壊れた光を宿していた。

 薄暗い倉庫の影で、人は本音を隠す必要がない。

 影の中では、腹の底の獣がそのまま目になる。

「魚、拾ったんだ」

 一番年下の少年が言った。

 魚といっても、それは魚だった“物体”の名残でしかなかった。

 焼け跡の側溝に流れついた、半分腐った魚の腹。

 皮は裂け、内側の赤黒いものが少し出ている。

「これ、食べるのか」

 少年が言うと、三人は同時にうなずいた。

 その素早いうなずきが、この町の残酷さを象徴していた。

 誰も躊躇わない。

 躊躇った者から飢え死ぬ。

 飢え死ぬ者から忘れられる。

 忘れられる者から消えていく。

 町は、もうしばらく残酷であり続けるだろう。

「焼けば、匂い消えるよ」

「火、ある?」

「……釜戸に行けば、つけられる」

 三人の目が、少年に食い入るように向けられた。

 依存と期待と欲望が、ひどく生々しく混ざっている。人間の欲望は、生きるための本能よりも、ずっと泥臭く、そして美しい時がある。美しさというのは、必ずしも清潔さのことではない。“むき出し”という意味でもある。戦時の美しさは、たいていこの種類だった。

「持ってくる。待ってろ」

 少年は釜戸に戻り、火打ち石を拾った。

 釜戸の前に立つと、一瞬、伯母の姿が見えるような気がした。

 幻覚か、記憶かは分からない。

 人間は、必要に応じて幻覚を見る。

 幻覚は錯覚の形をした祈りだ。

 倉庫へ戻ると、三人が魚を鉄板に乗せ直していた。

「これ、匂いが……」

 少年が言いかけたとき、ひとりが言った。

「匂いで腹は膨れないよ」

 そう言った声には、戦争そのものの冷たさがあった。

 言い訳を嫌い、希望を邪魔者扱いし、現実だけが正しいと信じている声だった。

 少年は火花を散らした。

 紙片が黒く焦げ、息を吹き込むと小さな火が上がる。

 火の匂いが鉄板に移り、そこに魚の生臭さが混ざった。

 熱が加わると、腐臭はむしろ濃くなった。

 濃くなっても、子どもたちは逃げない。

 むしろその匂いを吸い込みながら、強く火を見つめている。

 腐った魚を焼くという行為は、食欲のためではない。

 それは、生き残るための儀式だ。

 生き残りとは、苦しく汚い儀式の積み重ねでしかない。

「……食べよう」

 鉄板に火が通り、魚の表面が黒く焦げると、三人のうち一人が手を伸ばした。

 少年は、その手首をつかんだ。

「待て。まだだ」

 誰かがすぐさま怒鳴った。

「おまえに何が分かるんだよ」

 分かるはずがない。

 だが、焼き切れていない腐敗物は、人間の腹を殺す。

「焦げるくらいまで焼け」

 少年は強く言った。

 声に、伯母の言い方が混ざった。

 彼女の声は死んで残ったのではなく、生き残ったのだ。

 鉄板がじりじりと鳴り、やがて焦げた皮の下から、わずかに白い身が現れた。

 その白さは、あまりに小さく、心許ない。

 だが、その小さな白身が、四人を同じ方向に向かせた。

「……分けよう」

 少年はそう言った。

 本当は一口も食べたくない。

 腐臭が喉の奥をひきつらせる。

 だが、食べるとは、味ではなく“生きる権利”の確認行為だ。

 汚いものを食べられる者が、生き延びる。

 三人は、黙ってうなずいた。

 鉄板の上で焦げた魚を、小さな欠片にわける。

 分けるという行為は、時に“祈り”よりも尊い。

 飢えた人間が物を分けるとき、それは倫理でも善でもなく、ただの本能である。

 本能は、美しい。

 少年は、自分の欠片を口に入れた。

 舌が痺れた。

 わずかな甘さと、ひどい苦味と、腐りかけた内臓の匂い。

 それが喉を通って胃に落ちていく。

 胃は拒絶したが、少年は無理に飲み込んだ。

 飲み込むという動作は、命令である。

 自分の身体に対して、自分が唯一持っている権力の行使だ。

 他の子どもたちも同じように食べた。

 誰も、味について何も言わなかった。

 味を語るほどの余裕がない。

 食べたという事実だけで十分だった。

「……ありがとう」

 最年少の少年が言った。

 その言葉は、腐臭よりも重かった。

 ありがとうの裏側には、飢えと不安と孤独が詰まっている。

 言葉が重い時、人間はすでに壊れかけている。

 倉庫を出ると、風が吹いた。

 風は、魚の匂いを消してくれなかった。

 匂いとは、生きる証拠であり、生き残った傷の匂いである。

 それは、いつまでも身体にまとわりつく。

 丘を登ると、少女が立っていた。

 涙を拭いたような顔をしていたが、何も言わなかった。

 少年の服から腐臭が漂っているのに、少女は鼻をしかめなかった。

「……今日も、生きたね」

 少女はそう言った。

 少年はうなずいた。

 生きるとは、腹に何を入れたかで決まるわけではない。

 ただ、その日、何かを飲み込み、耐え、明日へ繋いだかどうかだ。

 夕暮れの丘で、二人は黙って風を受けた。

 風が全てを洗い流すように吹き抜けていく。

 だが、匂いは消えない。

 匂いは、生きている限り消えない。

 少年は思った。

 ——これが、灰の味か。

 ——これが、戦争の後に残る“生の匂い”なのか。

 そして、胃の奥にまだ重く残る魚の味を抱えたまま、

第24章 井戸の底と、ひからびた水音

 戦争が終わったという知らせは、町の空気を少し軽くしたようで、実のところは何も軽くしてはいなかった。軽くなるのは、浮かれた人間の頭の中だけで、腹や足や背中の痛みはそのままだ。戦争が終わったところで、昨日の瓦礫は今日も瓦礫で、井戸の水は相変わらず濁っている。戦争とは、終わった後のほうが手間がかかる。人間の愚痴と恨みがそのまま残るからだ。

 少年は、朝の薄暗い光の中を歩いていた。井戸へ行く途中、足元の土が湿っているのを感じる。雨が降ったわけではない。どこかの家の残り火が夜中まで燻り続け、灰に溜まった水分がじわじわと地面に染み出したのだ。匂いもまた生っぽく、煙と汗と、かすかな死臭が混ざっている。こういう匂いを吸い込むと、人間の体は妙に冷える。冷えるくせに、腹だけは空くのだから不思議だ。

 井戸の前に立つと、縄が切れかけていた。井戸の石組みは黒ずみ、ところどころ剥がれている。戦争前は、もっと澄んだ水だったと伯母が言っていた。井戸の水には家の歴史が映るのだ、と。今は、その水さえ底のほうで濁り、どんな歴史を映しているのか分からない。

 しゃがみ込んで井戸を覗いた。

 底は暗く、ぽつりと水面が見える。

 その水面に影が揺れた。

 少年は一瞬、伯母がそこに立っている気がして、井戸の縁に手をついた。

 しかし、それはただ自分の影が揺れているだけだった。

 幻覚か、記憶か、それとも疲労か。

 区別などどうでもよかった。

 死んだ者が水面に現れようが、影が勝手に揺れようが、少年にとっては同じことだ。

 そこに「いる」と感じるほうが楽なのだ。

 戦争後というのは、そういう奇妙な慰めで生き延びる。

 縄を引き上げると、桶は空っぽで、底が割れかけていた。

 「こんなもので水を汲めるか」と思いながらも、桶を井戸へ下ろした。

 水面に触れる瞬間、かすかな水音がした。

 その音だけがやけに鮮やかで、井戸の底に残された“生”がまだ死にきっていないことを教えていた。

 桶を引くと、底の割れ目から雫が垂れ、泥水がぽたぽたと少しずつ落ちていく。

 桶はまるで、死にかけた肺のようだった。

 空気を吸っても、すぐに漏れてしまう肺。

 水を汲んでも、すぐに漏れてしまう桶。

 どちらも、生きるのには不向きだ。

 それでも、使うしかなかった。

 壊れかけの桶でも、井戸水は井戸水で、飲まなければ人間は干からびる。

 干からびることに比べれば、濁った水の味などどうでもいい。

 少年は桶を持ち上げ、釜戸の跡へ戻った。

 灰の上にわずかに光が落ち、昨日の火の痕跡がまだ微かに残っている。

 灰を指ですくうと、冷たかった。

 冷たさが指先から身体に移ると、奇妙に落ち着いた気持ちになった。

 火が消えても、灰は残る。

 灰が残れば、また火をつけられる。

 それが、伯母の教えだった。

 水を釜に注ぎ、少年は薪の残りを探しに行った。

 瓦礫の間には、誰かが使いさしの木材を置いていた。

 こういうとき、人間の善意も悪意も区別はつかない。

 置いていったのが善意か、ただの放置かはどうでもいい。

 使えるものは使う。

 戦争下の倫理は、それだけで十分だ。

 釜戸に薪を置き、火打ち石を叩くと、小さな火花が散った。

 火花を見ると、何でもないくせに胸がざわつく。

 あれは生の色なのだ。

 人間は炎を見ると生きたいと感じるようにできているのだろう。

 ようやく火がつき、釜の水が温まり始めたころ、少女がやって来た。

 昨日と同じ服だが、顔が昨日とは違っていた。

 昨日よりも少し、大人に近づいて見えた。

「水、汲んだの?」

「うん。濁ってるけど」

「濁ってるほうが、生きてるみたいだよ」

 少女はそう言って笑った。

 笑いながらも、瞳の奥には重たい影があった。

「今日も学校に行く?」

 少女が聞くと、少年は首を振った。

「今日は、行かない。……行く気にならない」

「どうして?」

 どうしてと言われても答えようがない。

 腹の底に、昨日の腐った魚の重みがまだ残っている。

 その重さは、胃の痛みではなく、心のどこかの軋みだった。

「……胃が嫌がってるんだ」

「学校?」

「ううん。生きるってことが」

 少女はしばらく黙った後、小さな声で言った。

「私もだよ」

 戦争後というのは、みんなこうなる。

 生きることが急に“義務”になり、昨日まで死ぬか生きるかを賭けていた人間が、急に明日への宿題を渡される。

 生き残った者は、死者の分まで未来を背負わされる。

生ぐさいのは、血や魚だけではない。

 未来の匂いもまた、生臭いのだ。

 釜の水が沸き始めた。

 湯気があがり、空気が少しだけ柔らかくなる。

 少女は湯気に手をかざし、目を細めた。

「……いい匂い」

「なんにも入ってないよ」

「入ってないからいいんだよ」

 湯気だけの匂いには、過去の記憶が混ざらない。

 火も魚も、死者の匂いもない。

 ただ、湯気である。

 湯気は、生と死のどちらにも属さない唯一の匂いだった。

 二人は、湯が冷めるのを待ちながら、ぼんやり街を眺めた。

 どこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえる。

 泣ける声が残っているというのは、それだけで生きている証拠だ。

 町の端では、誰かが瓦礫を集めている。

 瓦礫の山が、町の新しい家になるのだろうか。

 破壊というのは、終わりではなく始まりに変わるから厄介だ。

 湯が適温になった頃、少年は器に移して少女に渡した。

 少女は湯を口に含み、そっと飲み込んだ。

 その顔は、昨日よりもずっと安心していた。

 温かいものというのは、それだけで慰めになる。

 慰めとは、理屈ではなく温度の問題なのだ。

「今日、ひとつだけ分かったことがある」

 少女が言った。

「なに?」

「生きるのは、怖いけど……怖いまま生きていいんだよ」

 少年は、湯気の向こうで少女の顔を見た。

 その表情は弱く、強く、年齢より少しだけ大人びていた。

「……明日は、学校に行くよ」

 少年は自分で驚くほど静かな声で言った。

 少女は嬉しそうに微笑んだ。

 湯気が空に吸い込まれ、風が頬を撫でた。

 その風は、昨日の腐臭をほんの少しだけ遠ざけてくれた。

 井戸の底にはまだ濁った水がある。

 腹の奥にはまだ魚の重みがある。

 だが、それでも明日は来る。

 少年は、湯の入った器を両手で抱えながら思った。

 ——生きるとは、これ以上もこれ以下もないのだと。

(第二十五章につづく)

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