佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第二十一章・第二十二章

目次

第21章 灰の上の光


 その朝、町の上には、かすかに青が戻っていた。

 戦争が終わった翌日の空は、不思議なほど静かだった。

 爆音も警報も、誰かの叫びもない。ただ、遠くで風が家々の隙間を通り抜ける音だけがあった。

 少年は、瓦礫の街をゆっくり歩いていた。

 靴の裏で、粉になった瓦の破片が小さく鳴る。

 音が鳴るたびに、心臓が一瞬跳ねた。もう空襲はないはずなのに、身体のどこかがまだ“過去”に縛られている。

 戦争の終わりとは、爆撃が止むことではない。

 恐怖が身体から抜けていくまでの長い時間のことだった。

 家の跡に戻ると、釜戸の穴は昨日のままだった。

 少年はしゃがみ、火打ち石を取り出した。

 伯母の杖の破片と並べて置く。

 それは、墓標でもあり、家の象徴でもあった。

 火を起こそうとは思わなかった。

 今日は、ただ風に任せておくことにした。

 風が灰を撫で、灰が少しだけ舞い上がる。

 それが光の中で踊る。

 灰が踊るたびに、何かが蘇るような気がした。

 空の向こうから、人々のざわめきが聞こえてきた。

 誰かが旗を掲げている。

 旗といっても、白い布切れを棒にくくりつけただけのものだ。

 それでも、町の人々はその白に目を奪われた。

 色のない時代に、ただの“白”がこれほど眩しいとは誰も思っていなかった。

 少年はその光景を見つめながら、自分の膝に残る灰を払った。

 灰の中には、過去の声が眠っている。

 伯母の声、父母の声、焼け落ちた町の叫び。

 けれど、灰の奥に耳をすませば、もうそのどれもが優しかった。

 怒りも悲しみも、長く放置すると、やがてやさしさに変わる。

 やさしさは、忘却のもうひとつの名だ。

 午後、少年は丘へ登った。

 昨日までの風は止み、空は薄い青。

 海は遠くで光を返している。

 その光が、かすかに揺れた。

 まるで、見えない何かがそこに“息をしている”ようだった。

 丘の上には、子どもが数人いた。

 同じ町の誰かだろう。みんな裸足で、泥の上に棒を並べて何かを作っている。

 少年が近づくと、ひとりの少女が顔を上げた。

 その顔は見覚えがあった。

 闇市で人参を噛んでいたあの少女だった。

「……終わったんだね」

 少女が言った。

 少年はうなずいた。

「終わった、らしい」

 声に迷いがあった。

 終わりという言葉は、まだ実感の形を持っていなかった。

 少女は笑った。

 笑うことを思い出したように、ぎこちなく唇を動かした。

「ねえ、明日から、どうするの?」

「どうするって?」

「生きるの。どこで、生きるの?」

 問いに、少年は答えられなかった。

 どこで生きるか、ではなく、“どうやって”生きるか。

 それを考えるには、まだ日が明るすぎた。

 風が丘をなでた。

 その風の匂いは、焼け跡ではなく、草の匂いだった。

 戦争の間、草の匂いを忘れていたことに少年は気づく。

 鼻の奥が少し痛くなった。涙が出そうになる。

 草の匂いとは、生の匂いだ。

 死の匂いではない。

「火を起こしたい」

 少年は、ふと呟いた。

「火?」

「うん。あの釜戸の穴に。もう一度、火を入れたいんだ」

 少女は静かに頷いた。

「いいね。あたしも手伝う」

 二人は町へ戻った。

 焼けた木片を拾い、瓦礫の間から紙くずを集めた。

 少年は火打ち石を取り出し、何度も叩いた。

 石の音が乾いた空気を切る。

 火花が一度、ふわりと散った。

 それは、かすかに昼の光を吸い込み、灰の上で消えた。

 再び叩く。

 今度は、紙くずに小さな炎が生まれた。

 炎が息を吹き返すようにゆらゆらと揺れる。

 少年の胸が熱くなる。

 それは、空腹の熱でも怒りの熱でもなかった。

 ただ、生きていることの証としての熱だった。

 少女は、その火に掌をかざした。

「……あったかい」

「そうだね」

「こんなにあったかいの、いつぶりだろう」

 火が音を立てる。

 ぱち、ぱち、と。

 釜戸の穴が、また家になった。

 火は、空間を意味づける。

 火があるところに、家ができる。

 家ができると、人が帰る。

 夕暮れ、町のあちこちで小さな火が灯り始めた。

 誰かがマッチを擦り、誰かが鍋を置き、誰かが笑った。

 笑い声は細く、途切れながらも確かに響いていた。

 人々の声が重なっていく。

 それは、かつての生活の音だった。

 少年は、釜戸の前で炎を見つめた。

 炎の向こうに、伯母の姿が見える気がした。

 あの日の笑顔と、あの声。

 「火があれば、ご飯ができる」

 その言葉が、再び胸の中で灯った。

 火は夜になっても消えなかった。

 風が止み、煙がまっすぐ空へ昇っていく。

 その煙は、どこかで星の光と混ざり合った。

 少年は空を見上げた。

 星がひとつ、またひとつ、現れる。

 その星の下で、世界はようやく静まり返っていた。

 それは、平和という言葉が、まだ誰の口からも出ていない時刻だった。

 少年は、火打ち石を握りしめた。

 冷たい石の奥に、炎の記憶が宿っている。

 伯母の声、少女の笑い、灰の匂い、風の音。

 すべてが、この小さな石の中に溶け込んでいる気がした。

 空の端に、かすかな朝の気配があった。

 新しい日が始まろうとしている。

 灰の上の火が、やわらかく揺れた。

 少年は立ち上がり、胸の奥でひとつ深呼吸をした。

 ——終わりではなく、始まりだ。

 その言葉が、夜明け前の空に静かに溶けていった。


第22章 光の跡を歩く

 夜が明けた。

 灰と煤に覆われた町にも、かすかに金色の光が差し込んできた。

 少年は、釜戸の前で目を覚ました。火はすでに消えていたが、灰の中に手を入れると、まだほんのりと温かかった。

 温度とは、記憶の最後の層のようなものだ。消える前に一度だけ、触れる者に確かさを与える。少年はその温かさを掌に閉じ込めるようにしばらく握りしめていた。

 伯母が残した杖の破片が、灰の中に半ば埋もれている。

 少年は、それをそっと拾い上げた。

 木の表面には、雨と風に削られた細かい傷がいくつも刻まれていた。

 それは、伯母の歳月そのもののように思えた。

 空には薄い雲が流れ、遠くで風が家々の隙間を撫でている。

 昨日の喧騒は嘘のように静まり返り、人々はまだ家の残骸の中で新しい“日常”を探しあぐねているのかもしれない。

 日常という言葉は、やさしく聞こえるが、実際にはもっと荒々しい。

 それは、無理やり未来に歩かせる力であり、逃げ場のない現実そのものだ。

 少年は、少女と約束したように、今日も丘へ行くことにした。

 灰色の道を歩きながら、昨日灯った火の匂いがまだ町に残っているのを感じた。

 火の匂いは、生き残った町の脈拍だった。

 丘の下に着くと、少女が一人で座っていた。

「おはよう」

 小さな声で言うと、少女は振り返り、少しだけ笑った。

「今日は、風がやさしいね」

「うん」

 本当に風は、昨日とは別のもののようだった。

 冷たく刺すような風ではなく、どこかぬるく、遠くの海の匂いを含んでいた。

 二人は丘を登った。

 頂上では海がよく見えた。

 朝の光が海面に反射し、その光が蜘蛛の糸のように空へ伸びている。

 戦争前の海も、きっとこんな色だったのだろう。

 ただ、その光がどんな意味を持っていたかを、少年はもう思い出せなかった。

「ねえ」

 少女が海を見つめたまま言った。

「これから、どうするの?」

 昨日と同じ質問だったが、その響きは少し変わっていた。

 町の“終わり”を見届けた後の問いは、重さが違った。

 少年は考えた。

 どれだけ考えても、答えが出る気はしなかった。

 だが、昨日、釜戸に火を灯したときの感覚が、少年の中でひとつの方向を示していた。

「……生きる場所を探すよ」

「どこで?」

「分からない。でも、ここじゃなくてもいいと思う」

 少女は静かにうなずいた。

「私も。でも、しばらくはここにいる」

 その言葉には、帰る場所を失った者特有の強さとあきらめが混ざっていた。

 失った後でしか、強さは生まれない。

 あきらめの影がなくては、希望の光も生まれない。

 丘を降りる途中、人々の声が聞こえてきた。

 壊れた学校の前に集まって、何かの相談をしている。

 配給所の跡では、兵隊服を脱いだ若い男たちが子どもたちに話しかけている。

その声には、戦争の終わりとともに戻ってきた“生活の音色”があった。

 言葉というのは、不思議なもので、同じ単語でも時と心でまるで違う音を持つ。

 今日は、その言葉たちは、どれもやわらかかった。

 町の中央に、古い掲示板が立っていた。

 誰かが新しい紙を貼ったらしい。

 紙は真新しく、文字は震えながらも丁寧に書かれていた。

 ——今日から、学校を再開します。

 ——子どもたちは午前に集まってください。

 雨に濡れた紙が風に揺れている。

「学校か……」

 少年はつぶやいた。

 少女が笑う。

「行ってみたら?」

「行ったこと、ないよ」

「じゃあ、初めてでしょ。初めては、怖くていいんだよ」

 初めて。

 その言葉が胸に響いた。

戦争が終わったということは、“初めて”を再び生きられるということかもしれない。

どこかに行くのも、何かを覚えるのも、誰かと話すのも、すべて初めてに近い。

 人間は初めての積み重ねでしか、生き直せない。

 少年は学校へ向かった。

 校舎は半分が崩れ、屋根の穴から光が差し込んでいる。

 教室には、机がいくつか残っていた。

 座ると、木の冷たさが背中に伝わる。

 窓の外で、子どもたちが走り回っている。

 笑い声が響くと、それだけで世界が少し治ったような気がした。

「名前は?」

 先生らしき男が尋ねた。

「……まだ言いたくない」

 少年は答えた。

 男は眉を上げ、すぐに笑った。

「それなら、言いたくなったときでいい」

 その瞬間、胸の中がほどけるように楽になった。

 言葉は強制されると固まるが、許されると流れ出す。

 流れ出す言葉は、時に涙と同じ重さを持つ。

 午前中いっぱい、少年は机に座っていた。

 字の練習をする子もいれば、絵を描く子もいた。

 誰かが歌い始め、それに別の子どもが続いた。

 その歌は、昔、伯母が時々口ずさんでいた子守唄だった。

 声を聞いた瞬間、少年は胸がきゅっと痛くなった。

 誰かが何かを思い出し、それをまた別の誰かに渡す。

 言葉も歌も、そうして生き続ける。

 午後になり、少年は釜戸の跡へ戻った。

 火打ち石を取り出し、灰の中にそっと置いた。

 火をつけるつもりはなかったが、ただそこに石を置いておきたくなった。

 石には、伯母の声と家の記憶が宿っている。

 それがあれば、いつだって火を起こせる。

 火がある限り、家は存在する。

 夕暮れ、再び丘に登った。

少女が立っていた。

「どうだった?」

「学校、行った」

「そっか」

 少女は、少年の顔を見て微笑んだ。

「明日も行く?」

「……うん」

 海は、昨日よりも青かった。

 風は、昨日よりもやさしかった。

 音は、昨日よりも遠くまで届いた。

 少年は、空を見上げた。

 雲の裂け目から差す光が、海と町と灰をまとめて照らしている。

 それは、失われた時間を、そっと縫い合わせるような光だった。

「明日も、生きてみよう」

 少年は、小さな声で言った。

少女はうなずき、隣に並んだ。

 二人の影が、長く丘の斜面に伸びていく。

 風が吹いた。

 光が揺れた。

 灰の世界に、新しい色が差し込んだ。

 ——始まりは、もう始まっていた。

(第二十三章につづく)

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