佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第十九章・第二十章

目次

第十九章 骨の雨と声の終わり


 その朝、風が東から吹いていた。雨上がりの空は白く、雲の輪郭が曖昧で、まるで世界そのものがどこかへ行ってしまう前の「余白」だけを残しているように見えた。

 少年は、崩れかけた家の裏に腰を下ろし、濡れた地面に手をついた。掌に感じる冷たさが、ようやく「今日が始まった」ことを教えてくれる。夜が明けたという実感は、太陽ではなく、土の温度によって知るものだった。

 伯母は、古い布を干していた。雨に濡れた衣が、風を受けて小さく震える。その震えは、人間の鼓動に似ていた。伯母の顔はやつれているが、その目だけは強かった。

 戦争の終わりを誰も知らない。だが「もう少し」という言葉が、町のどこかで毎日のように囁かれていた。希望というのは、根拠を持たないほど強い。人々は、嘘でも信じることに飢えていた。

 少年は、空を見上げながら思った。

 ——この風は、どこから来て、どこへ行くのだろう。

 答えは分からない。分からないまま、風の音が耳をすり抜けていく。音は誰のものでもない。けれど、この数か月で、少年は音に意味を与える癖を覚えていた。音は、世界の生存の証だ。何かが動くということは、まだ世界が終わっていないということだ。

 昼前、少年は市場跡へ出た。雨でぬかるんだ道を歩くたび、足跡が泥に刻まれ、すぐ消える。

 闇市の骨の男が、骨を並べていた。干からびた魚の背骨、鳥の脛、誰かの指ほどの大きさの骨。その中には、名前のつかないものも混じっている。

「おい、少年。今日は何を探してる」

 骨の男の声は、湿った空気を割って響く。

「火打ち石がほしい」

 少年は答えた。伯母が昨日、釜戸の火を絶やしてしまったのだ。再び火を起こすためには、石がいる。

「火か。火なら、もう皆が持っているようなもんだ」

 男は笑った。笑うというより、歯の間から空気を漏らした。

「持っているつもりで、燃やすものを失くしてる」

 少年はそう返した。男は一瞬、黙った。沈黙が二人の間に落ちた。沈黙の方が言葉よりも、ずっと正確な理解を与える。

 骨の男は、腰をかがめて小さな包みを取り出した。

「これは、海辺で拾った石だ。乾けば火が出る」

 少年はうなずいた。男に何を差し出せばいいのか分からなかった。袋の中には、もう何も残っていない。

「……何もない」

「いいさ」

 男は、そう言って石を渡した。

「おまえのその顔が、もう十分だ」

 意味は分からなかったが、男の声には重さがあった。少年は石を胸に抱え、頭を下げた。

 帰る途中、風がまた強くなった。空が唸っている。灰が宙に舞い上がり、空気の匂いが焦げた。焦げた匂いは、もうどこにでもある。人間の匂いと混ざっている。匂いとは、記憶の最初の形だ。記憶の中で最も消えにくいのは、音でも映像でもなく、匂いだ。

 伯母は、風を見ていた。

「今夜は、また降るね」

 その声に、少年はうなずいた。火打ち石を見せると、伯母は微笑んだ。その笑みは、短く、弱く、しかし確かなものだった。

「火があれば、ご飯ができる」

「ご飯ができれば、生きてる」

 そのやり取りのあと、伯母は炊事場の跡へ向かった。二人の影が、灰の上に並ぶ。影は、光がなければ生まれない。光がある限り、まだ人間でいられる。

 夜、釜戸の中に小さな火が灯った。湿った木がじりじりと音を立て、炎が赤く膨らむ。火が立つと、部屋の壁が柔らかく明るくなる。その明るさが、過去と未来の境界を曖昧にした。

 少年は、火の前で手をかざす。指の節々が、ほんの少しずつ温かくなっていく。

「火はね、人の中にもあるんだよ」

 伯母の声は、遠い昔を思い出すように静かだった。

「消えるようで、消えない」

 少年は、火を見ながら呟いた。

「でも、燃え尽きたらどうなる?」

 伯母は答えなかった。ただ、釜戸の奥に薪をひとつ足した。その仕草が、返事の代わりだった。

 外では、雨がまた降り出していた。細い雨が瓦礫を叩き、残った屋根を鳴らす。その音が、やがて夜全体を包む。

 少年は、火の音と雨の音を聞き分けることができなくなった。二つの音が混ざって、どちらも同じ意味を持つようになった。

 ——火も、雨も、生きる音だ。

 その夜、伯母はいつもより早く横になった。疲れが溜まっているのだろう。少年は、火を見つめながら、手の中の火打ち石を撫でた。冷たい。冷たいのに、何かを宿している。生命とは、冷たさの中に潜む微かな熱だ。

 やがて、少年も横になった。天井の隙間から、月の光が細く差し込む。灰色の光。灰は、月の表面とよく似ている。どちらも、過去の燃えかすだ。

 翌朝、伯母の姿はなかった。

 釜戸の火は消えており、鍋の中の湯は冷たくなっていた。

 外に出ると、風の向きが変わっていた。

 風は、北から吹いていた。空は澄んでいるのに、地面が沈んで見えた。町全体が、昨日より一層低く沈み込んでいる。

 少年は、探し回った。裏の井戸、小道の奥、焼けた倉庫の影。

 そのどこにも、伯母の姿はなかった。

 残されていたのは、釜戸の脇に立てかけられた古い杖だけだった。杖の先端には、まだ濡れた泥がついていた。外へ出たのだ。

 風が、灰を運んでいく。灰が舞い、空気が白くなる。

 少年は、その中に立ち尽くした。どこからともなく鐘の音が響いた。

 鐘はもうない。けれど、音だけは残っている。音だけが、過去からやってくる。

 少年は、火打ち石を握りしめた。小さな石が、手の中で冷たく光る。

 火を起こさなければならない。火を絶やしてはいけない。火が消えると、伯母も、世界も、灰の中に溶けてしまう気がした。

 少年は、石を叩いた。火花が一瞬だけ散った。灰の中で、それは小さな星のように瞬いた。

 火花が消えても、少年の中にはその残像が残った。

 その残像こそが、希望だった。希望は、現実よりも短く、しかし確実に熱を残す。

 灰の匂いの中で、少年は静かに呟いた。

「伯母さん……まだ、ここにいるよ」

 声は風に溶け、空へと昇っていった。

 空の彼方で、雨の気配がまた生まれる。雨は、生と死の境界を曖昧にする。

 少年は、再び釜戸の前に座り込んだ。火打ち石を胸に抱え、目を閉じた。

 灰の上に、新しい風が吹いた。

 世界は、何も変わっていないようで、確かに少しずつ変わっていた。

 そしてその変化を、少年だけが知っていた。

 ——それは、終わりではなく、続きの始まりだった。

第20章 風の止む場所

 朝になっても風が吹いていた。灰の匂いを含んだ冷たい風は、どこか遠くの海からやって来ているようだった。空は色を失い、灰と同じような白に沈んでいる。

 少年は、昨夜の釜戸の跡にしゃがみ込み、火打ち石を掌に乗せた。冷たさは、もう感じない。冷たさに慣れるというのは、感覚の喪失ではない。生きるための順応だ。人間は、耐えるために鈍くなる。

 伯母の姿は、やはりどこにもなかった。

 それでも少年は、あの小さな声をまだ耳の奥で聞いていた。

 ――「火があれば、ご飯ができる」

 それが最後の言葉になるなんて、本人も思っていなかったはずだ。終わりというのは、いつだって気づかれないまま終わる。気づいたときには、もう次の朝が来ている。

 市場の方から、かすかな声が聞こえた。人がまだ残っている。戦争が終わったという噂が、昨日から町に流れ始めていた。けれど「終わった」という言葉は、何かを壊す音に似ていた。誰もが信じきれず、恐る恐るその音を耳に入れている。

 終わりというものは、歓喜ではなく、静寂の形でやって来る。

 少年は、布袋を肩に掛けて歩き出した。雨上がりの道には、ところどころに泥と瓦礫が混じり合い、そこを通るたびに靴底が重くなる。重くなるほどに、過去がくっついてくる。過去は泥のようなものだ。乾けば粉になり、風が吹けば舞い上がる。だが、乾くまでは重い。重さの分だけ、生きているという証になる。

 闇市の跡は、半分が焼け、半分が沈黙していた。骨の男の姿は見えない。魚の骨を干していた棚も倒れている。倒れた棚の下に、小さな紙切れが挟まっていた。少年はそれを拾い上げた。

 焦げた縁の真ん中に、鉛筆の細い字でこう書かれていた。

 “まもなく自由になる”

 自由という言葉を見た瞬間、少年の胸の奥が少しだけざわめいた。

 自由。

 どんな形をしているのだろう。

 戦争の前、自由は空の色のことだった。走り回れる空き地のことだった。今は、それを思い出せない。思い出すこと自体が、贅沢になっていた。

 少年は、壊れた橋を渡った。橋の下には、乾いた川が流れていた。川はもう音を立てない。音のない川は、存在だけで流れを示す。少年は、石を一つ拾って投げた。

 石は、音を立てずに沈んだ。

 音がしないと、存在が疑わしくなる。

 だが、確かに沈んだ。見えないもののほうが、現実だった。

 午後になると、空に光が戻ってきた。雲の切れ間から射す細い光の筋が、焼けた町のあちこちに落ちる。その光は、まるで過去と未来を縫い合わせる糸のようだった。

 少年は、その光の中で目を細めた。灰の粒が、光の中を漂っている。それが、まるで雪のように見えた。雪のように静かで、やさしい。だが、触れれば煤の匂いがした。雪に似た灰は、かつての家や人の残りだった。

 伯母の杖を持ち上げると、柄の部分に小さな刻印があった。

 “いきる”

 たった三文字。

 それがすべてだった。

 伯母は、言葉を残すことより、形を残すことを選んだのだ。言葉は消える。けれど形は、誰かが拾うまで待ってくれる。

 夕方、少年は町外れの丘へ登った。風が強く、遠くに海が見えた。海は灰色で、空と境界を失っていた。

 丘の上には、壊れた観音像があった。顔の半分が欠けている。その欠けた部分に、風が通り抜ける音がする。

 少年は観音の足元に座り、布袋から干し芋の最後の一片を取り出した。

 硬く、砂の味がした。けれど、噛みしめると甘かった。

 甘さが舌に残るたび、伯母の声が蘇る。

 ——「火があれば、ご飯ができる」

 それは祈りのように、同じ響きで何度も脳裏に繰り返された。祈りとは、消せない声の反復である。

 陽が沈む頃、町の方角から、誰かの叫び声が聞こえた。

 「戦争が……終わったぞ!」

 叫びは風に千切れ、丘の上に届いたときには、もう半分しか残っていなかった。

 終わった?

 本当に?

 少年は立ち上がった。丘の下を見ると、数人の大人たちが空を見上げていた。

 彼らの顔には、歓喜も涙もなかった。ただ、静かだった。静けさの中に、長い時間の疲れが沈殿していた。

 風が止んだ。

 音も止んだ。

 まるで世界が一度、息を止めたかのようだった。

 少年は、布袋を握りしめた。中には火打ち石と杖の欠片が入っている。それだけが、今の自分の全財産だった。

 自由とは何かを、まだ知らない。

 だが、風が止んだこの瞬間、少年ははっきりと感じていた。

 生き延びた、という事実だけが、すべての定義に優先するのだと。

 夜になった。丘の上から町を見下ろすと、あちこちに小さな火が灯っていた。

 それは灯籠のように見えた。

 誰かが、もう一度釜戸に火を入れたのだろう。

 火がつく音が、遠くでぱちぱちと鳴る。音があるということは、生活が始まったということだ。

 少年は、膝を抱えて座った。風は完全に止み、空気が柔らかくなっている。

 遠くの海の上に、星がいくつか瞬いていた。

 伯母の声がまた聞こえる気がした。

 「火があれば、ご飯ができる」

 「ご飯ができれば、生きてる」

 そしてもう一度、静かに繰り返す。

 ——生きてる。

 少年は、火打ち石を胸に当て、目を閉じた。

 耳の奥で、かすかな波の音がした。

 それは、灰の向こうから届いた未来の音のようだった。

 人々は、まだ知らなかった。

 戦争の終わりとは、始まりの別名であることを。

 終わることによって初めて、人間は「生きる」という難題に向き合わなければならないことを。

 夜風が一度だけ吹き抜け、少年の髪を揺らした。

 それは、伯母の手のように優しかった。

 火がひとつ、丘の下で燃え上がる。

 その光は、かつての町のすべてを包み込み、やがて闇と交わった。

 灰の上に、また新しい朝が来る。

 少年は、その朝を迎える準備をしていた。

(第二十一章につづく)

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