佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』

目次

第百九十四章 灯の引き受け──影が「終章を閉じない手」を夕方に残した夕方

 夕方、少年は引き受けた。

 引き受けたと言っても、

 誓ったわけではない。

 決意したわけでもない。

 ただ、逃げなかった。

 逃げないことを、正しさにもしなかった。

 正しさにすれば、誰かを裁く。

 裁けば、物語は輪郭を持つ。

 輪郭を持てば、終章は閉じる。

 だから閉じない。

 手を開いたまま、

 重さを受ける。

 それが第百九十四章の芯だった。

 灯は戻らない。

 同じ日は昼に混ざり、

 遠景は朝の奥に置かれ、

 余白音は夜の底を持たないままひらいている。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「引き受け」を置く。

 引き受けとは、

 説明を付けずに抱えることだ。

 理由を言わず、

 成果を求めず、

 ただ生活の側に置く。

 少年は、その置き方を、

 影が伸びても肩が上がらないことで測った。

 ——抱えなくて、

 ——いいよ。

 ——手を開いたまま、

 ——受けていこう。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 「できた」「できない」を言いたくなる。

 今日は、言わない。

 

  • ■影の道で「拾わない、でも踏まない」

 影の道に、

 小さな欠片が落ちていた。

 瓦の欠片か、

 瓶の欠片か、

 判別できない。

 拾えば、危ない。

 拾わなければ、危ない。

 そういうものが、

 夕方には増える。

 少年は拾わなかった。

 だが踏まなかった。

 欠片を、

 欠片のまま残して、

 足を少しだけ逸らす。

 逸らし方に、

 大きな意味を与えない。

 意味を与えると、

 自分が立派になってしまう。

 立派になると、

 他人が小さくなる。

 少女が言った。

「拾わないの?」

「引き受け」

「それ、引き受け?」

「拾うのが引き受けじゃない。

 踏まないのが引き受け」

 少女は少し黙って、頷いた。

「うん。

 踏まないって、

 静かだね」

 少年は頷いた。

 静かな引き受けは、

 拍手を呼ばない。

 

  • ■黒板の字が「受」で止まり、「解」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が薄く机に残り、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■受

 理解の「解」はない。

 解がないと、

 人は不安になる。

 だが解があると、

 人は安心して忘れる。

 忘れるための解は、

 節子を“済んだこと”にする。

 教員はいない。

 だが机の匂いだけが残り、

 この場所がまだ生活に属していることを示している。

 少年は紙に短く書いた。

 ——受持

 それは、

 解決ではない。

 担当でもない。

 ただ、手が離れないということ。

 

  • ■炊き出しの端で「礼を言い切らない」

 夕方の炊き出しで、

 青年が椀を渡す。

 礼を言い切れば、

 往復が完成する。

 完成した往復は、

 関係を固める。

 固まった関係は、

 負担にもなる。

 少年は、

 目を合わせて、椀を受け取った。

 言葉は短く、

 途中で終わった。

「……」

 言い切らない礼は、

 相手を突き放さない。

 だが縛らない。

 その微かな幅が、

 夕方を保つ。

 青年が短く言う。

 「気をつけてな」

 それで十分だった。

 少女が言った。

「言わないんだ」

「言い切ると、

 終わる」

「うん。

 終わらないと、

 続くね」

 少年は影の端へ移った。

 端は、

 関係が膨らまない。

 

  • ■釜戸の前で「明日を準備しない準備」

 家に戻ると、

 少年は器を洗った。

 洗うのは、

 明日のためではない。

 今日のためでもない。

 手が動くから動く。

 動いた手を、

 良いことにしない。

 少女が言った。

「えらいね」

 少年は首を振った。

「えらくない」

「じゃあ、なに?」

「引き受け」

「うん……。

 引き受けって、

 えらくないんだね」

 少年は頷いた。

 えらくない引き受けは、

 終章を閉じない。

 釜戸の灰はそのまま。

 火を確かめない。

 消えているか、

 残っているか。

 決めない。

 決めないことで、

 薄明は明日にも来る。

 

  • ■影の輪で「決着を中央に置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はほとんど形を持たなかった。

人は集まらず、

通り道だけが残っている。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

決着を置かない。

決着を置くと、 
誰かが言う。 
「よくやった」と。 
言われれば、 
終わりが完成する。 
完成した終わりは、 
生活の中で居場所を持てない。

少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
終わりにしなかったよ。 
でも、 
逃げもしなかったよ」 

 少年は頷いた。

逃げないことを、

勝利にしない。

勝利にしないから、

続けられる。

——それで、 
——いい。 

 節子の声が夕方の空気の奥でそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は手になる。

手は、

開いたまま受ける。

 少年は立ち上がり、

影の長い道へ踏み出した。

欠片を拾わず、

踏まず、

ただ避ける。

避けることを、

意味にしない。

 引き受けとは、

答えを出すことではない。

終章を閉じないまま、

生活を続けることだ。

第百九十五章 灯の余熱──影が「終章の前に残る温度」を夜にほどいた夜

 夜、少年は終章を急がなかった。

 急げば、整う。

 整えば、しまえる。

 しまえば、閉じられる。

 閉じられれば、人は安心する。

 安心すると、忘れていい顔をする。

 忘れていい顔をした瞬間、

 節子は“物語の中の妹”になる。

 少年は、それが嫌だった。

 嫌だと言うのも、また違う。

 嫌だと名づければ、戦いになる。

 戦いになれば、勝ち負けが生まれる。

 勝ち負けが生まれれば、終章は拍手を呼ぶ。

 拍手は、この暮らしの音ではない。

 だから急がない。

 余熱のまま置く。

 火が終わっても、

 まだ温かいところを、

 終わりとして固めない。

 それが第百九十五章の芯だった。

 灯は戻らない。

 引き受けの手は開いたまま、

 同じ日は昼に混ざったまま、

 遠景は朝の奥に置かれたまま。

 その積み重ねの上に、

 夜は「余熱」を置く。

 余熱とは、

 終わったことに見えるものが、

 まだ終わっていない温度だ。

 触れれば分かる。

 だが確かめない。

 確かめれば、終わりの印が押される。

 少年は、その温度を、

 掌がかすかにほどける感じで測った。

 ——終わったふりを、

 ——しなくていいよ。

 ——温かいなら、

 ——まだそこにある。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 「どれだけ残っているか」を数えたくなる。

 今夜は、数えない。

 

  • ■影の道で「冷たさを急いで決めない」

 影の道に出ると、

 夜気が肌に触れる。

 寒い、と言えば、

 寒さが確定する。

 確定すれば、

 暖を取らなければならない。

 暖を取ると、

 “寒さに勝った”形ができる。

 形ができると、

 夜は勝敗を持つ。

 少年は、寒いと言わなかった。

 ただ、袖を引く。

 引いた袖が、

 肌に触れて、

 それで足りる。

 寒さを倒さない。

 寒さと並ぶ。

 少女が言った。

「寒い?」

「余熱がある」

「どこに?」

「ここ」

 少年は胸を指ささなかった。

 胸を指せば、

 そこが中心になる。

 中心になると、

 物語が集まる。

 少年は、指ささないまま頷いた。

「うん。

 ある」

 少女は息を吐いて、

 白くならないのを見て笑った。

「まだ冬じゃないね」

 少年は頷いた。

 冬じゃない、と言える夜は、

 終章を急がせない。

 

  • ■黒板の字が「温」で止まり、「終」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ残っていた。

 ■温

 終の字はない。

 終がないのは、

 意図ではなく、

 生活の癖だった。

 誰も、

 終わりを書き込む余裕がない。

 余裕がないから、

 終わりが立たない。

 立たない終わりは、

 この暮らしに合っている。

 少年は机に座り、

 紙に短く書いた。

 ——余温

 余りの温度。

 残りの熱。

 だが“残り”と言うと、

 減っていく感じがする。

 少年は、減っていくとも思わない。

 ただ、

 触れたら温かいところがある。

 それだけ。

 

  • ■炊き出しの火で「消えた後を見ない」

 夜の炊き出しの火が、

 小さくなっていた。

 火は、

 いつか消える。

 消える瞬間を見れば、

 終わりが立つ。

 終わりが立てば、

 今日が“過去”になる。

 少年は、

 火の終わりを見なかった。

 鍋を洗う水の音を聞いた。

 水は、終わりを持たない。

 流れて、

 消えて、

 またどこかへ行く。

 それでいい。

 青年が短く言う。

 「明日、火がつくといいな」

 “つくといいな”は、

 約束じゃない。

 約束じゃないから、

 守れなくても責めが生まれない。

 その言い方が、

 終章に合っていた。

 少女が言った。

「消えるの、見ないの?」

「余熱」

「うん。

 見ないと、

 まだ残るね」

 少年は頷いた。

 残るのは火ではなく、

 火に手を伸ばした時間だ。

 時間の余熱だ。

 

  • ■釜戸の前で「温度を確かめない」

 家に戻ると、

 釜戸の灰は暗い。

 だが暗いものにも、

 温度は残る。

 少年は、

 指を入れて確かめなかった。

 確かめれば、

 数字にしたくなる。

 数字にすれば、

 減っていく。

 少年は、

 灰の上に板を一枚置いた。

 板は、

 床にも、蓋にもなる。

 蓋にすると終わる。

 床にすると続く。

 少年は、

 床として置いた。

 少女が言った。

「まだあった?」

「分からない」

「うん。

 分からないと、

 怖くないね」

 少年は頷いた。

 怖くない夜は、

 眠りを急がせない。

 

  • ■影の輪で「終章の鐘を鳴らさない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪はほとんど見えなかった。

人は集まらず、

それぞれの影がそれぞれの方向へ伸びている。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

終章の鐘を置かない。

鐘を置けば、 
鳴らしたくなる。 
鳴らせば、 
終わりが始まる。 
終わりが始まれば、 
この夜は“最後の夜”になる。 
最後の夜になれば、 
すべての言葉が重くなる。 

少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
終章を急がなかったよ」 

 少年は頷いた。

急がないことで、

温度はほどける。

——ほどけたまま、 
——置いとこう。 

 節子の声が夜の空気に混じってそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は余熱になる。

余熱は、

燃えないが、冷えきらない。

 夜は深くなる。

だが深さにも、

終点は置かれない。

 少年は立ち上がり、

灯を低くして、

足元だけを照らした。

掲げない。

合図にしない。

ただ、

余熱の残る場所を踏み外さないために。

 終章は近い。

だが近いものを、

掴みに行かない。

 掴めば、

終わりは固まる。

固まった終わりは、

この暮らしに馴染まない。

 少年は、

終わりを終わりとして抱えず、

余熱のまま、

今日という夜を

静かに歩き続けた。

(第百九十六章につづく)

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