佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第十四章・第十五章

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第十四章 砂糖の底に沈む午後の影

 古い正午の光は、薄く濁った緞帳の隙間から、だらしなく這い降りてきた。机の上には、薄らく曇った硝子瓶。それは伯母がかつて「砂糖よ」と言って差し出した、どことも判別のつかない甘味料の瓶である。中身は今や湿気を含んで、塊になり、崩れ、また固まり、砂丘の残滓のような有様だ。少年は、その底に、かつての“甘さ”が、本当に存在したのか、それとも自分が幼かっただけで勝手に甘いと錯覚していたのか、判然としない。その自分の曖昧さに、少し笑った――もちろん声には出さない。声など出すほどの体力は残っていない。

 伯母は、まだ七輪の傍で、米粒が一つでも焦げつくと怒鳴る癖を捨てていなかった。彼女は“恥”が何かをよく知っている。戦地に送られた弟(少年の父)の帰還を信じる、と言いながら、実際には“敗戦国の女”として、この場末の街で肩身を狭くしていることを自覚している。その自覚が“恥”につながり、怒鳴り声に転化する。つまり、伯母にとって、この七輪の火加減は、“自分の尊厳を守る最後の砦” なのだ。少年は、それをわかっている。伯母は弱い。弱いからこそ苛烈になる。その当たり前の心理に、誰も言葉を与えることはない。

 病院という場所は、人をよく錯覚させる。それは“治る”という幻想ではなく、“守られている”という瞬間的な錯覚だ。少年の妹が息を引き取ったのは、その錯覚のさなかである。白いカーテンと白い床の清潔さが、“何かが救われた”ような“美しさ”を与えた。しかし、実際には、より深く残酷な“欠落”があっただけだ。妹の手は、母が死んだときの、あの冷たさとそっくりだった。冷たさの種類は似ているかもしれない。だが、少年の心臓の跳ねかたは、まるで違った。それは、――諦めであり、恐怖であり、そして、滑稽だった。

 滑稽、という言葉に、佐藤愛子なら、きっと “あなた方は、ある日突然、絶望を娯楽として消費し始めるのよ” と吐き捨てただろう。そういう毒のある醒めた台詞が、妙にぴたりとはまる。少年は、自分が、他人の涙を“羨ましい”と思う瞬間があるのを、自覚している。泣くという行為は、感情が満ちている証であって、もし感情が枯れきってしまえば、泣くことさえできなくなるのだ。涙は“水”ではない。あれは“余裕”だ。戦災下で“余裕”など、どれほど貴重か。涙を持てる人間は、まだ半分は幸福だ。

 外では、午後を斜めに削る、幾本もの影が走っている。鴉は、臓物を啄むのをやめたのか、あるいは、もう啄むべき臓物がなくなってしまったのか。少年の耳には、ざらついた風の音しか入ってこない。戦災の焼け跡には、“むごい”も“美しい”も、大差はない。解体を待つ建物の柱は、骨のように剥き出しになり、若い兵士の骨と同じ“役目を終えた物体”として佇む。

 この腐臭の街には、夏が不似合いだ。夏は必ず、生命を呼び寄せてしまう。セミの声は、死という言葉とまったく調和しない。少年は、それを“腹立たしい音”と呼んでいる。腹立たしい、と喉の奥で呟くと、唾が乾いてしまう。唾液というのは、口の中が“健康”である証拠だ。唾液がないと、パンは呑み込めない。伯母は“飲み込めないパンは、パンじゃない”などと怒鳴ったが、少年からすれば“飲み込めない人生は、人生じゃない”と返したくなる。しかし、その台詞を言葉にする余裕は、当然ながら存在しない。

 あれから、砂糖は食卓に出る回数が激減した。本当に手に入らない日が続いたのだ。伯母が当時の配給所で揉めた日は、少年も一緒に列にいた。前に立っていた女性が“この砂糖は、本当に砂糖なの?”と、職員に詰め寄った。職員は“疑うなら、舐めてみればいいでしょう”と返した。そのとき、少年は――あぁ、“甘さ”というものの正体とは、結局、“人への期待”なんだな――と思ったのだ。

 砂糖は甘い物ではない。人が甘いと思う心を持っているから、砂糖は甘くなる。その“心”が廃れれば、砂糖は“ただの湿気た粉”に過ぎない。少年は、それを理解してしまった。理解してしまったがゆえに、空腹よりも絶望よりも、“砂糖の塊”が、何より怖かった。

 伯母の指先には、ささくれがいくつもあった。戦争は、人間が“人間らしさを奪われた”のではなく、人間の“薄皮の滑稽さを剥き身にした”のだ。野坂昭如の『火垂るの墓』の時代を生きる者たちは、誰もが“醜いのに美しい”という奇妙な美学の中で呼吸している。それは、少年にとっては、もはや日常だ。人は、日常を失ったときに初めて“違和感”を覚えるが、日常に残酷が染み込んでしまえば、それを“美学”と呼ぶほかない。

 妹は、最期に何も言わなかった。いや、言ったのかもしれない。ただ、少年の耳が、もう言葉を拾う準備をしていなかっただけだ。戦争は、人の耳を鈍らせる。“命令”の声ばかりが耳に入ってくるからだ。自分の声は、押し潰されていく。押し潰されていくうちに、声を出すという回路そのものが、関係を失う。少女は死に、少年は生き延びた。それだけだ。

 砂糖の瓶は、まだ机の上に残っている。薄汚れた硝子の向こう側に見える“茶色い塊”を、人は“甘い”と呼ぶ。だが、それは本当に“甘い”のか? 曖昧な疑問だけが、少年の舌の上に滞留する。伯母が“これは砂糖だ”と叫んでいたとき、誰も反論しなかった。反論しない沈黙の温度こそが、この時代の“空気”なのだ。空気は、黙って人を支配する。悲しみを塗り潰し、絶望を磨き上げ、そして“諦め”の表情に仕立てる。

 ……午後が、傾いていく。

 砂糖の瓶の底が、薄く光っている。

 甘さ、とは
 砂糖の性質ではない。
 人間の錯覚だ。

第十五章 瓦礫と人参と沈黙の斜線

 空襲の夜は、妙に静かだった。いや、静かに感じただけかもしれない。轟音そのものはあった。爆風が街を引き裂いていく音、炎が何かを呑み込んでいく音、破れた屋根が落ちる音、誰かが叫ぶ声、誰かが泣く声。全部、耳に入っていたはずだ。しかし、少年は、あの夜の記憶を、“音の無い夜”として持っている。人間の記憶とは、どこか勝手なのだ。勝手に削り、勝手に補完し、勝手に嘘を差し込む。少年は、戦争は“忘れる”ために存在するのだと、半ば諦めていた。

 翌朝、残った家々は、みな“絵葉書の裏面”のように色が抜けていた。人々は瓦礫の間を歩き回り、火が落ちたばかりの場所を避けながら、自分の家の“残骸”を探す。残骸というのは不思議な言葉で、それ自体には価値がないはずなのに、戦争下ではそれが“証拠”になる。“自分はここに住んでいた”という、かろうじての証。生きていた“生活の名残”である。少年は、焼けた机の脚に手を触れた。煤で汚れた指先を見つめると、その黒さがまるで“生き延びた証”のように思えてくる。滑稽な感傷だ。

 伯母は、瓦礫の上にしゃがみ込み、濡れた布を広げていた。その布の中には、人参が一本だけ入っていた。人参は、焼けた橙ではなく、どこか薄汚れた枯れた色をしている。だが、それでも人参である。それは、戦争下においては“ご馳走”に分類される。伯母は、それをどう扱えば“最大の意味”になるのか、必死に考えているようだった。意味を最大化するというのは、空腹の延長にある計算だ。誰かが生き延びるために、形も味も色も、全てが数字になる。

「これは…どうする?」

 少年はそう聞いた。しかし、伯母は何も言わなかった。言葉よりも、沈黙の方が強いことがある。沈黙というのは、“言葉を削ぎ落とした判断”である。伯母は、まだ決めていない。人参を今すぐ煮るべきか、誰かに半分与えるべきか、もっと後に“意味”として使うべきか。彼女は、戦争を生きることで、言葉の使い方より、沈黙の重さを覚えたのだろう。

 少年は、瓦礫を踏むときの自分の足音が、ひどく大げさに響くことに気づいた。まるで、自分だけが“まだ生き延びている”という主張をしているようだ。この足音は、生きている証明であり、同時に“死ななかった後ろめたさ”の証でもある。生き残るというのは残酷な権利だ。死は一瞬で終わるが、生き残るという行為は、何度も傷を舐め続けなければならない。

 少年の視線の先に、壊れかけのバケツが落ちていた。錆びついた鉄の内側には、乾燥した泥がこびりついている。そこに、雨が降れば、泥はまた水を吸い、形を変えるだろう。少年は、それを眺めながら、“形の変わる物”の美しさを思った。人間も同じだ。戦争がなければ、人はここまで“柔らかく変形する”必要はなかった。あるいは壊れる必要もなかった。

 午後になり、薄曇りの空から、斜めの光が差し込んできた。光は、焼け焦げた梁の角を照らし、瓦礫に残った硝子片を白く反射させる。伯母の持つ人参にも、わずかに光が入る。光は、戦争と無関係のように見える。“光”は、どんな時でも“ただ光”なのだ。それがどれだけ残酷な現実の上に落ちようとも、光自体に責任はない。

 少年は、ふっと笑いそうになった。光は罪がない。砂糖も罪がない。人参も罪がない。罪があるのは、人間だ。物は物でしかないのに、人間は物に意味を与え、そこから勝手に感情を取り出し、またそれを誰かにぶつけたり、共有したり、呪ったりする。人間は優しいから残酷なのだ。残酷になれるほど優しいのだ。そう思うと、涙に似た感覚が、喉奥に微かに生まれた。しかし、それは涙ではない。涙が出るほどの“余裕”は、もう少年には残っていなかった。

 夕方、伯母は、ようやく口を開いた。

「…煮よう」

 その一言が、今日の“決定”だった。“煮る”というのは、誰かが食べる、という意味だ。しかし、それが“誰”なのかは言わない。その沈黙の部分が、最も残酷で、そして最も“生活”に近い。少年は、伯母の後を追いながら、焦げくさい焼け跡を見つめた。昨日までここは“街”であり“生活”だったのに、今日からは“瓦礫”であり“残骸”だ。

 しかし、残骸の中にも、人参がある。砂糖がある。塩がある。炊事がある。火がある。

 戦争は、人間の生活を破壊する。
 だが同時に、人間の“生活をやめない能力”もまた露呈させる。

 少年は、その矛盾の上を歩く。

 夜が来る。
 人参の薄い煮汁と、薄い味。
 その味が“戦争の味”であり、
 “生き残る味”であり、
 “死者の影を踏みしめる味”である。

 少年は、その味を、正しく“味わおう”とは思わなかった。味わうのではなく、“確認する”だけでいい。確認するだけで、少年の中には十分すぎる重みが残る。

 それが“生き残る”ということだ。

(第十六章につづく)

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