第十二章 午前の小さな言葉
朝は、思っていたより早く軽くなった。
昨夜の濡れ痕は、布より、皮膚より、思考の奥に薄く沈み、少年の体温と同じ速度で形を変えていた。完全に乾くわけではない。乾かなくていい、と少年は思った。乾いてしまえば、それは“消えた”と同じ意味になってしまうからだ。湿りの残ったまま、別の名でそこに居つづけることのほうを、少年は選んだ。
少年は家を出た。
外の空気は、昨夜の雨をまだ含んでいたが、もうそれは“雨の匂い”ではなかった。少し甘い。草が光を飲み込んでいく音のような匂いだった。
石垣の角を曲がると、海は見えない。
海に行く必要も、いま少年にはなかった。
海は、昨日そして一昨日と、少年の内部へ充分な“層”を運んできていたからだ。今日は、別の方向へ半歩だけ進めばいい。
午前九時を少し回った頃だった。
道の向こうに、午後の丘で見た少女がいた。
ベンチの横、逆光ぎりぎりの位置に立っていた。
彼女は少年に気づいたが、昨日と同じように“自分に対して立っている”ままだった。こちらを見るわけでも、視線を外すわけでもない。何か“選ばないこと”がひとつ、きちんと出来ている人の立ち方だった。
少年は近づいた。
昨日のように、声を捨てるためではない。
言葉を投げ込むためでもない。
“何かを渡すことができるかもしれない”という、まだ柔らかい可能性だけを携えて。
丘の草は、夜明けの湿りをすでに忘れ始めていた。
地面に落ちた水滴は、乾く手前の、最も透明な状態になっている。足元の影には湿りがほとんど残っていなかった。光は、やわらかい輪郭で少年と少女の影を薄く重ねて、そして中央で分離していった。
少女はうつむいたまま、小さく指を動かした。
昨日見えた“白い紙の切れ端”は、もう少女の手元になかった。
紙はどうなったのだろう、と少年は思った。
けれど、それを訊く理由はなかった。
訊かないことで、少女が自分だけの呼吸で紙を処理できるなら、その“訊かない”の選択こそ、少年が渡せる唯一の敬意だと思った。
少年はポケットから、自分の紙片を取り出した。
そこには、昨夜引いた、たった一本の細い線だけがある。
文字ではない。
名前ではない。
けれど、そこには“昨日の朝とは違う呼吸”が確かに座っている。
少年は、その紙片を少女に向けて差し出した。
渡す、というより “見せる”。
ほんのひと呼吸分だけ。
少女は目を上げた。
紙は受け取らなかった。
少年も渡しきろうとはしなかった。
それで充分だった。
少女は言った。
声は細く、けれど途切れなかった。
「きのうの……雨、すごかったね」
少年は答えた。
たった一文字のような、短い言葉で。
「うん」
紙より短い。
線より短い。
けれど、その“短さ”が今日の午前には正しい。
少女はそのまま立ち去った。
少年は追わなかった。
追う必要はなかった。
いま、やりとりは成立した。
線は、言葉へ変換される必要はない。
言葉は、長くなくていい。
“ひと文字ぶん”で充分なのだ。
少年は、再び紙片をポケットへしまった。
線は消さない。
この線は、今日の午前までの全てを、一本として持っている。
消すとしたら、それを“別の日の線”で上書きできたときだけでいい。
坂を下りると、光はもう完全に昼のものになっていた。
湿りはまだ世界の低いところに残り、乾ききる前の香ばしさを広げていた。
少年は歩きながら、ふと気づいた。
朝より、呼吸が少し長くなっている。
吸う量と、吐く量と、その間に挟まれる“無音”の幅が変わっている。
その変化は、誰にも報告しなくていい。
報告しなければならない手前の、小さな収穫として胸へ置いておけばいい。
今日、少年は、短い言葉をひとつ、誰かに渡した。
それだけで充分だった。
それ以上は、今日には要らない。
少年は家の近くの角へ差しかかったところで、ひとつだけ思った。
この線は、明日の線とも、昨日の線とも違う。
そして、それを“違う”と感じられたことだけが――
今日の午前の、いちばん正確な収穫だった。
第十三章 午後の端に触れる
昼をすぎて、午後の一番あかるい時間帯になった。
太陽は海ではなく、町と畑のほうをじかに照らしていた。
雨の匂いは、もう空気の一番低いところに沈みきっている。
少年は、海へ行かなかった。
行く必要はなかった。
今日は、海ではなく “地面” のほうに傾いてゆく日だった。
丘へ向かう道でもない。
港の土手でもない。
少年は、集落の裏手にある “小さな空き地” へ進んだ。
そこは、秋祭りのとき、提灯が並ぶ場所だ。
今日は誰もいない。
午後の光が、ただ地面の上に平らに寝そべっている。
空き地の端に “木製の古い小屋” がある。
壁は灰色で、釘が錆びている。
少しだけ開いている隙間から、乾いた草の匂いが漏れていた。
少年は、その板壁の横まで行き、しゃがんだ。
地面に、薄い木片が落ちていた。
それは “爪ほどの大きさ” だった。
少年は拾わなかった。
拾おうと思えば拾える。
拾わないという「作為」ができるだけの余裕はあった。
ふと、風の具合が変わった。
海の湿気ではなく、土の奥からあがってきた、乾きはじめの熱気だ。
少年は、その温度に “線の続きを書かなかった昨日の判断” を重ねた。
線は紙の上に一本ある。
一本あるだけで、物は “物体” の側へ寄る可能性を持つ。
寄るだけで、まだ触れなくていい。
少年は、そう思った。
午後の光は、影を薄くしながらも “濃淡” を残した。
少年は地面の砂を指で押した。
沈む。
だが、触れたと言えるほど深く押していない。
“触れそうな手前” だけが、そこへ残った。
ひとりの老人が、空き地の向こうをゆっくり横切った。
麦わら帽子をかぶり、手押し車を押していた。
少年は声を出さなかった。
老人も声を出さなかった。
午後は、言葉を要求していなかった。
少年は、ポケットから “紙片” を出した。
昨日、一本だけ引いた線。
その線は “今日も今日の形” をしていた。
少年は、紙片を古い木壁に近づけた。
触れようと思えば触れられる距離だった。
風一枚ぶんの距離。
その瞬間、少年は “手首の角度” を変えた。
ほんの数ミリ。
紙片は壁には触れなかった。
ただ “壁がそこにあること” を、線に向かって見せただけ。
触れそうで、触れない。
触れたら、線は“物”になる。
まだ、そうじゃない。
今日は “午前の言葉” が胸に残っている。
その言葉が、まだ身体の中で定着してきれていなかった。
紙片をポケットに戻すと、指先の皮膚に “壁の温度” が、触れもしないのに入りこんだ。
物には “触れない触れ方” があるのだと少年は知った。
影だけを重ねるように。
気配だけを受け取るように。
少年は立ち上がった。
光は、木壁の下の雑草を照らし、葉脈のひとつひとつを浮かび上がらせた。
雑草は、雨の翌日の強い光を、あたかも “許し” のように受け取っていた。
少年は足を、光の中央へ置いてみた。
地面の砂が、指先ではなく “靴底” へ触れた。
靴のほうが “物体としての責任” を持っている。
靴底が触れることは、指が触れるのとは違う。
それは “自分が触れないまま進むための代理” だった。
少年は、空き地を抜けた。
海は見えないまま、今日の午後を終えようとしていた。
丘のほうも、川岸のほうも、別の子供たちの声が遠くで砕けていた。
その声に混ざらないことに、少年は “違和” を感じなかった。
今の少年は “混ざらないこと” に責任を感じていない。
混ざらなくても、線は“線のまま伸びる” と知っていた。
家の近くの角に差しかかったところで、少年はふと立ち止まった。
何か “小さな音” がした。
足元の石が転がっただけだった。
けれど、その “石の小さな音” は、なぜか今日の午後の総量を説明していた。
石は、触れもしないのに、少年の “内部の線” に触れた。
線は “もう少しで物体になる”。
それは “明日かもしれない”。
“明後日かもしれない”。
だが、その “まだ手前” の午後は、少年の内部を曖昧にするどころか、逆に締めていた。
触れないで戻ることが “今回の午後の正しい出口” だと、少年は理解していた。
紙片は、ポケットの中で静かに立っている。
一本の線は “物へ触れない距離” を守った。
けれど、その距離には “明日へ持ってゆける輪郭” があった。
少年は、角を曲がった。
午後の光が、背中のふくらみに薄く積もった。
線は、まだ “物” にならないまま――
今日の光を一枚だけ飲み込んだ。
(第十四章につづく)

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