第十章 夜の濡れ痕
夜が来た。
少年は家の前に立った。その玄関の上には、濡れた庇がある。そこへ落ちる雨粒の音が、高い音と低い音を交互に鳴らしていた。雨脚は強い。だが少年は、家の中へ入ろうとせず、ただ軒下から庭の暗さを見ていた。濡れた土は午後よりも濃く、色で言えば、黒より黒い。だが、黒ではない。あれは、水と土が混じった、説明できない「夜の濡れ色」だった。
家の灯りはついていた。
その灯りは、少年のいる玄関前まで届いていた。
透明な境界線があって、そこから先は“家の光”で、背後は“夜の雨”。
少年は境界線のぎりぎりの上に立っていた。
濡れた衣服は、もう冷えを越えて、皮膚と同化している。肩も背中も、防ぎようがなかった。いまさらタオルで拭ったところで、芯に入りこんだ冷たさは、そう簡単に外へ逃げていかない。
玄関の戸が、音を立てて少しだけ開いた。
中から、幼い妹の姿が現れた。
妹は、少年を見て、瞳を揺らした。声を出さなかった。だが声より先に、息が震えた。妹は一度、喉で言葉をつくりかけたが、それもやめ、両手を胸元で握ったまま立ちつくした。
少年は、妹を見つめ返さなかった。
視線を逸らすということではない。
視線を“合わせない”という、もっと別の状態だった。
それは逃避ではなかった。
まだ「合う時」ではなかったからだ。
玄関の灯りが、少年の濡れた肩の曲線をなぞる。
その光は、濡れた布地の上で、ゆっくりと薄く散った。
光が濡れに吸われる、という感覚だった。
少年は、玄関の敷居へ足を乗せた。
その瞬間、雨音の響き方が変わった。
外の音から、室内の音へ。
世界の“響き”が変わるだけで、空気の密度が違った。
少年は、ゆっくりと玄関の中へ入った。
妹が手を伸ばした。
少年は、その手に触れなかった。
触れない、という意思ではなかった。
触れる“形”がまだ決まっていなかった。
それだけだった。
妹は、言葉を飲んだまま、少年の背中を見ていた。
少年は濡れた靴を、玄関の端へ向けた。
脱ぐでもなく、置くでもなく、ただ“そこへ向けた”。
一瞬だけ、家の中の光が少年の頰に反射した。
廊下の奥から、母の足音がした。
靴下ごしの柔らかい足音。
母は、玄関手前で止まった。
雨音を背にした少年と、光を背にした母の間には、目に見えない“湿った空白”があった。
母は言った。
声は落ち着いていた。
怒りでも、咎めでもなく、ただ「見ている」という響きだった。
「濡れたまま座ると冷えるよ」
少年は答えなかった。
母はそれ以上、言葉を重ねなかった。
答えを求める形式の会話ではなかったからだ。
いま必要なのは、言葉ではなく、「この沈黙を壊さない」ことだった。
少年は、廊下の奥へ行かず、逆に玄関脇の、小さな縁側の扉へ向かった。
そこには、薄い障子がある。
障子の向こうは、夜の雨が光を吸いきった、濡れた窓枠の世界だった。
少年は障子を少しだけ開けた。
湿気を含んだ夜気が、また少年の皮膚へ戻ってきた。
内側と外側の境界を、わざわざもう一度“濡らす”ような動作だった。
少年は、その濡れた感覚に、再び輪郭を感じた。
午後に出会った少女の手のひらの中の紙片。
――あれを拾わなかった理由。
少年はようやく、その理由の「形」だけ触れた気がした。
拾うべき紙ではなかった。
あれは、あの少女の“輪郭になる前の濡れ痕”だった。
少年は、障子を閉めた。
障子紙が湿って少し重くなっていた。
濡れた紙は、乾いた紙よりずっと物体としての存在が濃い。
少年は、その抵抗を手のひらで受け止めた。
そして、少年は静かに、息を吐いた。
息は、夜へ溶けた。
言葉にはならなかった。
でも、それで充分だった。
夜は、まだ終わらない。
濡れ痕は、まだ乾かない。
第十一章 夜明け前の呼吸

家の中は静かだった。
雨は遠のき、庇を叩く音だけが、忘れられない癖のように間欠で残っていた。廊下の板は湿り、畳はわずかに重く、空気には冷えた水の匂いが混じっている。少年は自室に戻らず、縁側に背をつけて座った。障子の紙はまだ水を含んで、指先で押せば、沈んだまましばらく戻らないだろうと思えた。
家の奥で、やかんが低く鳴った。母が火を弱める気配がする。妹は布団の中でひとつ寝返りを打ち、また静かになった。世界は大きくは動かず、ただ、目に見えないところでわずかな調整をくり返している。そういう時間だった。
少年は膝の上に、濡れの残るズボンの布の重みを感じていた。その重みは、外の雨がやんでも消えない。自分の内側へ移り、別の名でそこに座り続ける。午後の丘のベンチで見た少女の横顔、靴の中へ紙片を押し込んだときの小さな音、手の甲に浮いた毛細血管の色が、濡れた布の重みに混ざっている。拾わなかった白い紙は、拾わなかったという事実のかたちで、少年の掌にいまも触れている。
庭の隅で、雨だれが桶の底を打つ音がした。ぽつ、ぽつ、と遅れ、また続く。少年はその音を数え、数え切らないうちにやめた。数え切ることに意味はない。数えようとする動作のほうが、耳を澄ます角度を決めるからだ。角度さえ決めれば、音は自分のほうからやってくる。
灯りを消すと、部屋が一段深くなった。暗いのに、物の輪郭はむしろはっきりする。あの“落ちる前の輪郭”と似ている、と少年は思う。闇は、輪郭を暗記している。光は、思い出す。夜明け前はその間にいる。
少年はそっと立ち、廊下を踏んで台所の手前で止まった。母がこちらを振り返る。声はないが、視線の奥に「今は話さなくていい」という合図があった。少年はうなずかずにうなずいた。母はやかんの蓋を少しずらし、湯気の逃げ道を作る。湯気は白くは見えず、空気そのものがわずかに厚みを増したように思えた。
居間の柱に掛けた古い時計が、針をひとつすすめた。三と四のあいだ。夜明け前の鈍い時刻だ。外では、遠くの川沿いを走る貨物の車輪が、一度だけ鉄の上を鳴らし、すぐに消えた。町全体が薄い息を吐き、また吸う。少年はそのリズムに乗るように、胸の奥で呼吸を整えた。
自分の中にある“濡れ痕”は、もう痛くはなかった。乾ききるわけでもないが、触れれば、触れた分だけ形を教えてくれる粘り気があった。午後の少女に向けて伸びかけた手は、伸ばさずに済んだ。伸ばさなかった手だけが知っている距離というものが、この世にはある。少年はその距離の存在を、はじめて肯定できた気がした。拾わない、言わない、触れない。その“しない”の中には、逃げと同じ字の並びを持ちながら、逃げとは別の力が宿ることがある。
少年は居間に戻り、机の上に置きっぱなしにしていたボール紙の切れ端を探した。机は乾いていて、紙は少し反っている。鉛筆は短く、指の腹で転がせばすぐ落ちた。少年はその紙をたてに向け、端に小さく線を引いた。線はすこし震えた。震えには疲れの震えと、はじまりの震えとがある。今のは、後者だった。
言葉を書くのではない。線を書く。線は言葉の骨で、骨だけでも姿勢はわかる。少年は線を三本引いた。一本は浅い角度で海のほうへ向かい、二本目はそれより少し深く、三本目はほとんど垂直に下りた。三本の出会う場所はどこにもなく、ただそれぞれがそれぞれの理由でそこにいる。紙の上の静けさが少し整い、机の上の空気の重さが変わった。
少年は鉛筆を置き、手のひらで紙の角を押さえた。指腹にひっかかる紙のざらつきが、やけに確かだ。線があるだけで、指は物に触れるようになる。さっきまでの夜の湿度が、紙の上で“形”に寄って座り直した気がした。
背後で障子が、きし、と小さく鳴った。振り向くと、妹が立っていた。髪が片方だけ跳ねている。眠った顔のまま、目だけ起きている顔。妹は少年の手元を覗き込もうとせず、天井の梁を見ていた。梁には蜘蛛の巣が一本、雨の気配で重く垂れている。
「まだ、あめ?」と妹が言った。声は、夜の奥へ吸われる前に、部屋の真ん中で消えた。
「もうすぐ上がる」と少年は言った。言葉に確信はなく、けれども、その不確かさごと妹に渡した。妹はうなずいた。うなずくというより、呼吸をひとつ深くした。小さな肩が沈み、また浮く。少年はその上下の幅を目で追い、その幅の中に、雨上がりの世界の最初の隙間を見た。
母がお盆に茶を載せて持ってきた。湯気はたしかに白く見えた。母は二つ湯のみを置き、少年の指先の紙をちらりと見て、何も言わなかった。湯の表面が小さく揺れた。窓の外の風が戻ってきたのだろう。障子が少し吸って、少し吐いた。家も呼吸をする。人の呼吸と合わせることはむずかしいが、合わせようとしなくても、いつか偶然に合ってしまうことがある。その「偶然に合う瞬間」を、少年はこの家で何度も見てきた。
妹は茶を飲まず、両手で湯のみを包んだ。手のひらの赤みが戻る。少年は自分の茶を少し口に含み、喉の温度が変わるのを確かめた。温度が変わるだけで、胸の奥の濡れは、濡れのまま別の名前になる。体の内部の言葉は、そうやってゆっくりと置き換わる。
夜の外側が、少し薄くなった。障子紙の向こうの暗さの粒が粗くなり、粒と粒の間に、見えないはずの空気がわずかに透けはじめる。鳥の声が一度、どこかの木で試され、失敗し、もう一度試される。最初の声は早すぎたのだろう。二度目はうまくいき、近所のどこかがそれに応じ、遠くのどこかが返す。声と声が届く範囲を確かめている。朝というものは、音の届く範囲が少しずつ密になっていく時間なのだと少年は思った。
少年は立ち上がり、縁側の鍵を外した。障子をほんの少しだけ開ける。夜気はもう冷たくはない。濡れた土の匂いは残り、同時に乾こうとする匂いが生まれている。庭石の上には、丸い水がいくつか残って、そこに薄い空が映る。空はまだ色を持たず、ただ明るさだけが先に来ている。色のない明るさ。夜明け前の呼吸。
少年は廊下に戻り、靴を手に持った。靴の中の冷たさは、もう痛くはない。足を入れれば、冷えは体温で書き換えられるだろう。書き換えられた冷えは、冷えのまま“自分のもの”になる。昨日まではそれを怖れていた。いまは怖くない。怖くない、と言い切るには少しだけ手前の場所だが、怖くない方向へ体が傾くのを、少年は自分で感じていた。
母が言った。「朝になったら、洗い張りの紐を張りなおそうね」
少年はうなずいた。うなずいたことが、ひとつの約束になった。約束は言葉で作るほうが簡単だ。けれど、うなずきで作る約束は、体のどこかが覚えている。覚え間違えもしない。少年は、その種類の約束を好んでいた。
妹は先に縁側へ出て、庭の端の竹を指差した。「みずの音がする」と言った。耳を澄ますと、たしかに、葉から葉へ落ちる遅い雫のしりとりが続いている。竹は賢い。雨がやむ前から、やむ時刻のほうへ葉の角度をそろえはじめる。少年はそう思った。人間もできる。やればできる。
空が色を持ちはじめた。薄い青よりさらに薄く、白に近い灰。東の端だけが、ほとんど聞こえない鈴のように明るい。町の屋根がふくらみ、遠くの海が少しだけ硬くなる。波の線が、一本だけこちらへ伸びてくる。まだ遠く、まだ弱いが、伸びてくる方向は確かだ。あの線は、午前の海とも午後の海とも違う。夜の重さが取れたぶん、嘘が少ない。
少年は、紙片を持って縁側に出た。鉛筆の黒は、夜より朝に向いている。少年は、さっき引いた線の脇に、もう一本、細い線を置いた。線は、海の波に似た角度を選んだ。一本だけで十分だった。これ以上増やせば、線たちは互いを濁らせてしまう。いまは一本のほうが、他のすべてを受け止められる。
妹が「おにい」と呼んだ。少年は返事をしなかったが、紙を少し傾けて見せた。妹は意味までは分からない。それでいい。分からないものの形だけを見せることは、子どもに対する立派な贈り物だと少年は知らないまま知っていた。
母が戸を開けて、朝の匂いを一杯に入れた。「冷える前に、少し歩いておいで」と言った。いつもの声だった。特別な指示も、禁止もない。少年は頷き、靴を履いた。濡れは、覚悟の温度で内側に退いた。
戸口を出ると、町の石段に薄い水の膜が残っていた。足を置くと、膜は壊れ、下から石の素肌が出てくる。破れた膜の端が、光りながらすぐに消える。少年は、それを二段、三段と見送った。東の空は白く、屋根の縁が真っ黒に浮いた。どこかの家で、朝の米を洗う音がする。水は細く、すぐ広がる。広がるけれど、行き先は決まっている。
港まで行くつもりはなかった。今日は、手前で止まる。止まる位置は、昨日の自分より半歩だけ先。半歩しか進まない日がある。半歩で充分な日もある。少年は体の中の歩幅を点検し、半歩の長さを決めた。決めれば、その長さは自然と足に降りた。
角を曲がると、丘の道の入口に昨日のベンチが見えた。そこには誰もいない。空席は、“いまはいない”という事実だけで、どこかを温める。少女のことを思い出したが、顔は浮かなかった。浮かないことが、かえって安堵を連れてきた。あの紙片は、彼女の内部で別の名を持ち始めているだろう。名前は他人がつけるものではない。少年は自分の紙片に線を引いたように、彼女は彼女の紙片に、彼女の朝の線を引くだろう。
海はまだ遠い。けれど、波の一本は確実に近づいてくる。少年は胸の奥で、その波に歩幅を合わせる。水に触れるつもりはない。触れなくても、触れたときの温度は想像できる。想像は恐れと隣り合うが、今は隣に座らない。距離を保ったまま、肩だけ向ける。肩だけ向けることが、少年に許される最善の礼儀だった。
朝が来る。
世界の湿りは、湿りのまま別の仕事へ移る。
少年は、半歩だけ進み、止まった。
止まった場所に、夜明け前の呼吸がすうっと入ってきた。
それは静かで、細く、しかし確かな線だった。
(第十二章につづく)

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