佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第八章・第九章

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第八章 午後の音

 午後になって、少年は港とは反対の、少し高い坂道をのぼっていた。まるで、朝の世界と午後の世界は別の季節のようで、光の傾きだけで風の温度が変わった。少年の足元に落ちる影は短くなり、舗装の小石ひとつひとつまでが、細かい輪郭を持ち始めていた。朝の海の底へ沈んでいった重さは、まだ胸の奥に残っている。その重さの正体はわからない。ただ、それを持ったまま進むことだけが唯一の「事実」だった。

 家のある方角から離れていくのは、今日は意識しての選択だった。少年は午前中の海で、自分の内部にこれ以上言い訳が効かない“輪郭”を見てしまった気がした。そして、その輪郭を手にしたまま、直接家に戻るのは、何かを壊すような気がした。この午後は「まだ自分の内部に隠れている別の扉」を探すための時間になった。

 少年のバッグは軽い。薄い筆記帳と、消しゴムと、鉛筆。ポケットには硬貨が少し。ボール紙の切れ端のような細い紙も入っている。家の机の上でちぎったものだが、何を書くつもりだったのか、いまは思い出せない。書く、という動作は「書く材料」よりも、「書く瞬間」がやって来た時にしか意味を持たない、と少年は最近思うようになっていた。準備や理屈より、あの不可解な“瞬間の襞”が現れたときだけ、文字は意味を帯びる。

 丘の上の道は、ほとんど車が通らなかった。アスファルトは昼の熱を吸い、僅かに橙色に揺らいでいた。遠くの海の線は、少しだけ揺らいで見える。少年はふと、地面に貼り付いている力を感じた。さっきまでの“沈む重さ”が、少し変形していた。海中に沈みこむような、静かで冷たい圧力ではない。今のは、もっと“低音の振動”に近い。言い表せないけど、腹の底に響くような音だ。午後の世界は、少年の身体のどこかを振動させていた。

 道の先にベンチが見えた。さび色の金属の脚に、剥げた木の板が三枚乗っている。中学生の帰り道のような、小さな憩いの場所。そしてそのベンチには、先客がいた。

 ひとりの少女だった。

 少年と同じくらいの年齢に見えた。短く切った髪。色の薄いワンピース。袖口が風に揺れている。少し濃い鞄が横に置かれていた。少女は少年が近づくのに気づいていたようだが、あえて視線を合わせなかった。ベンチの前には、茂みが広がり、その向こうに海が見える。港から少し距離があるだけで、海はまったく別の表情をしていた。午後の海は、朝よりも透明に見えた。陽光が角度を変えると、表面のきらめきが、粒子ではなく“帯”になった。

 少年はベンチの真正面まで歩いたが、少女には声をかけなかった。声をかける必要がなかった。声にする必要のある言葉はなかった。ただ、その場にひとりで佇んでいる人間がもう一人存在する、という事実だけで十分だった。

 少女は右手で、自分のスカートの布地を軽く握った。緊張のようにも見えた。けれども、それ以上に、“その地点を離れられない理由”を抱えた人の姿でもあった。

 少年はベンチから二歩手前の位置に立ち、海を見た。

 海は、抑制的な呼吸をしていた。午前の海とは違う。朝は澄んでいたが、まだ冷たく閉じていた。午後は開いている。音が見える。数分前まで、少年の内部で鳴っていた「低音の振動」に似ている。海の底には“低く伸びる響き”がある。それは目に見えない。けれど、確かにある。

 すると少女が、ほんの少しだけ口を動かした。声は出ていない。けれど、その動きは言葉だった。少年には聞き取れなかったが、少女はその一言を、誰よりも自分に向けていた。

 少年は、背中に風を感じた。右肩を軽く押すような風だった。海から丘道へ吹き上がってくる風。少年は、少女に近づく必要はなかった。声をかける必要もなかった。少年は、その一瞬で“不思議な連帯”を感じていた。それは海を回り込む水流のような、視界に入らない“つながり方”だった。

 少女の足元に、折り畳まれた薄い紙が落ちていた。白い便箋の半分ほど。角が少し折れている。風が吹くたびに、ぴくりと動く。少年は迷ったあげく、拾わなかった。拾ってはいけない気がした。それは彼女の海の底に沈む何かであって、少年のものではなかった。

 少女は、立ち上がった。ゆっくり。何かを抱えた動作ではなかった。もっと細い勇気のようなもの。失いたくない沈黙を守るための、最小の動作。少年は横を見た。でも少女とは目が合わなかった。少女は、海を見たまま、ボール紙の切れ端のような言葉を自分の靴の中に押し込むようにして、ベンチから歩き出した。

 少年の胸の奥の“重さ”が、少しだけ、音を持った気がした。音がすることで、重さが輪郭を持つ。輪郭を持つことで、それは“ただの重さ”ではなくなった。これは“重み”なのだ、と少年は思った。

 少女は丘の反対方向へ歩いていった。少年は背中を見送らなかった。ただ、海を見ていた。午後の海は、ゆっくり波紋を生んでいた。少しだけ風が強くなってきた。遠くの雲が、朝より分厚くなっている。海は、午後の結論を用意しているように見えた。

 少年は、肩の高さで息を吸い、また吐いた。身体が海の音に合わせて呼吸しているようだった。波の音のすべてが意味を持つわけではない。波は、ただ繰り返す。少年は、あの少女も同じ“午後”を持っていたことに、静かに気づいていた。

 少年は歩き出した。丘の下り坂は朝よりもくっきりと影を引き、少年の靴底の中で、アスファルトの粒子が音を立てていた。海は、今日も世界の底を鳴らしていた。

第九章 落ちる前の輪郭

 空が濃くなっていた。

 午前の海と、午後の海を通り過ぎたこの一日の終わりは、まだ夜には入らない。夜でもない。夕焼けでもない。何とも言えない色の層に世界が押しつぶされていくような「沈み込みの手前」の時刻だった。

 少年は丘を下りきったところで、ふと空を見上げた。雲は縁から濃い鼠色を帯び始め、輪郭線をゆるやかに互いへ流しながら、空全体へ沈殿していく準備をしていた。

 遠くで、細い雷鳴のような震えがあった。そこまで強い音ではなかった。ただ、低音が、少年の胸の底に触れた。「来る」という予感だけが、薄く確定していた。

 少年は、海へ戻る道ではなく、港から少し外れた脇道へ続く砂利道を選んだ。

 上り下りのない、ほとんど直線だけの道。

 その道は、以前は「何でもない退屈な帰り道」だったが、今は、少年の内部へ踏み込むための“余白”として成立していた。

 午後、あのベンチの少女と共有した“言葉ではない連帯”が、少年の身体のどこかで鳴り続けていた。

 少しだけ生温い。

 少年は歩く速度を変えなかった。

 急ごうとすれば、転ぶ気がしたし、遅くすれば、今度は歩いている目的そのものが壊れそうな気がした。

 だから、少年は歩いた。

 ただ歩いた。

 空気は一段、湿っていた。

 海からの潮の匂いに、土の匂いが混じり始めていた。

 その混ざり具合が、雨が「もう外側まで来ている」という証だった。

 少年は道の端に立つ電柱の下へ立ち止まった。

 電線の先に、小さな灰色の粒が浮いているように見えた。

 実際には浮いていない。

 けれども浮いている。

 そんな錯覚を抱かせるだけの濃密さが、空気全体をゆっくりと低音側へ傾けていた。

 少年は、深く吸った。

 胸の奥に「冷たい予感」が入ってくる。

 だが、その冷たさは嫌ではなかった。

 かつて、海を前にするとき、この冷たさは“恐れ”に似ていた。

 いまは違う。

 これは「輪郭の前段階」だった。

 輪郭が浮かび上がる前に、必ずこの冷たさはやって来る。

 少年は、ふいに音を聞いた。

 ぱち。

 地面に、何か一滴、落ちた。

 その音は小さかったが、世界の境界をひとつ明確に変えた。

 少年は顔を上げた。

 灰色の雲の底は、もう「形」ではなく「重さ」を持っているように見えた。

 そして、次の瞬間、雨は来た。

 音は細かい。

 けれども衝撃ではなく、密やかな無数の点。

 その点が連続すれば、線になる。

 線が束になれば、面になる。

 世界は、点から面へ変わる。

 その瞬間を、少年ははっきりと見た。

 少年は、雨を避けようとしなかった。

 身体の表面に、最初の雨粒が触れた。

 肩。

 髪。

 背中。

 少年は瞬きをした。

 その瞬きだけで、時間が一段階、滑らかになった。

 少年は道の端、低いコンクリートの縁に腰をかけた。

 雨粒が、肩から肘を伝って、袖口へ下りていく。

 ひとつ、またひとつ。

 少年は、その粒の小さな振動を、皮膚の上で数えていた。

 数え終わる前に別の粒が落ちてくる。

 それが重なっていく。

 少年は、初めて「触れてもいい」と思った。

 雨に対してではない。

 ――自分が避けていた“ある種類の濡れ方”に対して、だ。

 少年は、手のひらを上に向けた。

 雨粒が落ちる。

 手のひらを通して、雨音が内部へ入ってくるような気がした。

 胸のあの重さは、もう“ただの重さ”ではなかった。

 それは “落ちる前の輪郭” だった。

 少年は、午前よりも、午後よりも、

 今がもっと「本当の現在」に近い気がした。

 そして、少年は、わずかに笑った。

 笑った、というほど強い形ではない。

 唇がほんの少しだけほどけた。

 それだけだった。

 けれど、それで充分だった。

 雨は、少年を追い越していった。

 世界が濡れる速度は、少年の思考より僅かに早かった。

 少年は、そのスピードを羨ましいとは思わなかった。

 ただ、そういう「速度」が存在するということが、少年の内部へそっと沈んでいった。

 少年は、立ち上がらなかった。

 まぶたの内側に、淡い海の光の余韻が残っていた。

 雨粒の響きと、空の濃さと、地面の湿り具合。

 それらが少年の輪郭を、静かに補強していく。

 濡れるということは、外側と内側の境界が一瞬だけ曖昧になるということだ。

 少年は、それを受け入れた。

 雨が強まった。

 少年は、少しだけ目を開いた。

 世界は、濡れた面をまとったまま、まだ「完了」していなかった。

 これは“始まり”ではなく、“継続の中に潜む別の層”だった。

 少年は、雨音に耳を澄ませた。

 耳の奥で、あの低い振動が、輪郭を持ち始めていた。

(第十章につづく)

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