佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第六章・第七章

目次

第六章 風の穴

 その朝、町は風の音に穴が空いていた。

 風そのものは吹いていた。だが、吹きながら自分の音を持っていなかった。音が死ぬと、風はただの“圧”になる。湿った、薄い圧。

 その圧が、家の板戸を押しては戻し、押しては戻し、壊れもせず、強情にも、壊れないまま、ただしつこく揺らした。

 中途半端な強情は、戦時の町に多かった。死ぬほど強くもなく、笑い飛ばせるほど弱くもない。

 つまり、うんざりした強さ。

 妹の熱も、だいたいそれだった。

 熱は少し下がった。

 ただ、下がった、というより、どこか“移動した”感じだった。

 人間の熱は、下がるとき、体のどこか一部に“残骸”として寄りかかる。

 妹は呼吸が軽い。

 だが、軽いことは回復の証拠じゃない。

“軽さ”はしばしば“気力の退去”でもある。

 叔母はその軽さを測るように、妹の口元へ耳を寄せた。

「今日、起こす」

 短く言った。

 命令は、いつだって感情より先に来る。

 布団をめくり、妹を縦に起こす。

 妹はまぶたを半分しか上げなかった。

 上げる必要もない。

 必要は、体の重さで決まる。

 必要のない動きは、体は“しなくなる”。

 それは怠慢じゃない。

 賢さだ。

 少年は、冷えた水を皿に注ぐ。

 妹の唇は、砂を含んだみたいに乾いていた。

 薄い水を、そっと当てる。

 妹は少しだけ飲んだ。

 飲むという行為は、回復の証拠ではない。

 脱落しない、という証拠だ。

 生存は、だいたいその程度で成立する。

 叔母は棚から、折れた柄の“しゃもじ”を取り出した。

「これ一本あれば、粥も、混ぜるし、叩くし、すくう」

 説明する必要はない。

 説明は“余裕”があるときだけ役に立つ。

 いまは余裕がない。

 余裕のない説明は、ただの無駄だ。

 無駄は、この家で一番嫌われる。

 少年は、昨日の灯を言おうとして、言わなかった。

 言えば、一瞬だけ空気が温かくなる想像はできる。

 想像ができるから、言わなかった。

 想像で済む温かさは、外気に弱い。

 現実の温度に対抗できない。

 叔母は言葉を待っていなかった。

 待たない態度は、少年を楽にした。

 待たれると、言葉は“価値”を要求する。

 価値のある言葉は希少だ。

 希少なものほど、声帯の奥で重くなる。

 その重さは、発声を妨げる。

 黙るのは、怯えじゃない。

 整頓だ。

 昼すぎ、叔母は妹を寝床から出し、日当たりの悪い縁へ移した。

 太陽はいる。

 だが“暖かい”と呼べる段階ではない。

 光だけが、人間を皮膚で嘲笑う。

 光は、ほとんど意地悪だ。

 妹は膝の上で、ただ目を半分だけ開けた。

 その“半分”が、戦時の全力だった。

 全力は、だいたい派手じゃない。

 拍手も照明もいらない。

 息が続くことが、全力だ。

「夕方になったら、少し歩かせる」

 叔母は言い切った。

 言い切りは“生活の刃”だ。

 刃が鈍ると、生活は腐る。

 腐ると、家は壊れる。

 家が壊れたら、死ぬより早く“関係”が死ぬ。

 生活の死体ほど、後始末が面倒なものはない。

 少年は、また港へ出た。

 土手を下りる足が、昨日より静かだ。

 静かな足のほうが、風はよく聞こえる。

 今日は、風に穴があった。

 音のない風は、存在だけが強い。

 存在だけが強いものは、だいたい“証拠”になる。

 証拠は、希望の残骸だ。

 風は、灯を知らせなかった。

 昨日の火は、今日にはなかった。

 なかったものは、どこにも繋がらない。

 繋がりのない光は、ただの点だった。

 点は、意味を持たない。

 意味は、継続して初めて立ち上がる。

 継続しない光は、無いのと同じだ。

 帰ると、妹は少しだけ背中を壁にもたれさせていた。

 姿勢がひとつ変わると、家の温度が変わる。

“変化”は、それだけで生存の前兆だ。

 前兆を、感動にしてはいけない。

 感動は無駄を呼ぶ。

 無駄は、いま一番高価だ。

 夕方になり、叔母は妹に歩かせた。

 歩くといっても、三歩だ。

 四歩目は壁につかまった。

 それでも三歩は、三歩だ。

 三歩を侮ると、死ぬ。

 小さく歩く日を積みあげる人間だけが、春を迎える。

 春は、生存の副産物だ。

 その夜、少年は缶を撫でた。

 開けない。

 開けない、という意思が今日の“最大の声”だった。

 声は、喉から出るだけが声じゃない。

“決定”が声だ。

 今日は、開けない。

 そう決めた瞬間、少年の胸に“音のない穴”が生まれた。

 その穴は、風と形が似ていた。

 風も穴も、音を持たないときがある。

 音が無いとき、存在は濃くなる。

 濃い存在だけが、言葉を必要としない。

 少年は、それをまだ名前では呼ばなかった。

 呼ばないほうが強い。

 名前をつけると、弱くなる。

 弱くしてしまうと、手放す前に崩れる。

 妹は静かに眠った。

 眠れる日は、まだ続く。

 続くうちは、生だ。

 生には、穴が空いていていい。

 穴があるから風が通る。

 風が通れば、季節は、もっと先へ行く。

 人間は、風に置いていかれないように、

 ただ今日を――

 黙って、押し出すだけだった。

第七章 ゆるやかな反射

 少年は港の外れから、また海沿いの長い通路を歩いた。

朝の光はもう上へと伸び、霞が引いたあとの薄い青さと、褪せかけた桃色がまだ水平線に留まっていた。

少年は、あの場面を、喉の奥でずっと温めていた。昨日、肋骨の裏みたいなところに刺さった一言。

いや、一言というより、言葉がゆっくりと形になる前の、海藻のような揺らぎだった。

言い換えれば「不安の種」。けれども少年は、それをあえて胸の中に置いたまま、海へ歩いてきた。

落としに来たのか、見つけに来たのか、少年自身にもよく分からない。

 昨日と違うのは、足取りではなく、風だった。細い風が、少年の右耳から左耳へ、密やかな手紙みたいに通り抜けた。

それは、誰かが少年の心臓を静かに透かして覗き込んでいるみたいな、妙な感覚を伴った。
少年は、しばらく立ち止まる。海の上に浮いた、短い光の道が、さっきまでよりはっきりしている。

舟を繋いだロープが、微妙に震えている。少年は、前屈みになってそれを見る。ゆっくり揺れている。

何かを待っている。何かを耐えている。

 少年はふいに、昨日のあの言葉ではなく、もっとずっと昔の、曖昧な気配を思い出した。

幼いころの夕暮れ、角の八百屋の裏に、錆びたブリキの箱みたいな冷蔵庫が転がっていた。

その脇に、小さな男の子が座っていた。少年は、そのときの自分の姿を、鏡越しのように見た気がした。

一瞬、視線の高さが下がる。少年と、そのときの少年――ふたりはかすかに重なる。

あのときも、今のように空気の温度が急に変わって、何かが自分の肩におりてきた。

そうだ。彼はあのときも、ちゃんと理由はわかっていなかったのだ。

わからないまま、ただ座っていた。けれど、覚えている。ほんの僅かに、海の匂いがした。

 少年は、再び歩き出す。

朝の光は少しずつ強くなり、海水の表面で、ぴりん、と金針のような光芒を跳ねさせる。

少年は目を細めた。腕は軽い。脚も軽い。だのに、胸の奥だけは――昨夜より重い。

不思議なことだった。前へ進むほど、胸だけは海底の方へ沈んでいく。

それはまるで、自分の何かが、海の底にひっかかっているかのようだった。

 昨日、少年は帰り道に自分へ言い聞かせた。

「明日になれば、少しは楽になっているだろう」と。ところがどうだ。

今、少年の胸の中にある感覚は、楽ではない。

むしろ鮮明だった。

恐怖ではない。

怒りでもない。

ただ、「これは自分にとって、避けられない」という形を帯びてきただけだ。

 少年の横を、漁師らしき中年の男が通りかかった。

青い帽子を深く被り、片方の手にはしぶきを吸った白いタオルを握っている。

男は少年に声をかけなかった。

少年も男の顔を見なかった。

ただ、互いの存在だけが、ほんの数秒、互いの周囲の空気を揺らした。

少年は、ふっと息を吐いた。誰でもいい。

言葉じゃなくて、ただ「見られること」だけで、救われる瞬間がある。

 少年は防波堤の端に辿り着いた。

そこからは遠くの船が、少しだけ大きく見える。

波はまだ荒れていないけれど、遠くに見える筋雲が、不揃いに積み上がりはじめていた。

あれは雨の前触れだ。

少年は手すりに指を乗せ、指先に残った夜の冷たさを感じた。

海に手を伸ばせば、きっと指先が一瞬だけ鋭い痛みを返すだろう。

だが少年は伸ばさなかった。

今日は、触れるために来たわけではなかったからだ。

 少年は自分の胸の奥の重さが、今、この海のどこかに繋がっているように思えた。

もはや逃げるとか、忘れるとか、そういう選択肢は、薄くなっている。

この感覚は、「どう扱うか」ではなく、「もう既にそこにある」と認めるしかない。

少年は唇をかすかに開いた。

言葉にはならなかった。声は出ない。

でも、世界は呼吸していた。

海は呼吸していた。

少年は呼吸していた。

それで十分だった。

 少年は、踵を返した。

帰り道は、行きよりもずっと短い気がした。

歩幅は広がらない。

速くもならない。

だが、恐れは薄れた。

少年は道の中央ではなく、海沿いのぎりぎりの側を歩いた。

足元に落ちる影が細く伸び、少年はそれをちらりと見た。

同じ影でも、昨日とは違う影だった。

 港の出口付近まで戻ったとき、少年はふと立ち止まった。

朝の光はすでに世界を照らしていた。

少年は、胸の奥の重さを抱えたまま、静かに思った。

「今日の自分は、昨日よりもちゃんと自分だ」

 そう思った瞬間、不意に泣きそうな気がした。

でも、それも悪くないと少年は思った。

 波は、昨日とまったく違う音をしていた。

少年は、それに気づいた。

(第八章につづく)

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