第四章 水辺の灯
川の水は、火事の翌週になっても、焦げの薄皮をかぶっていた。春の入口なのに、冬の息を引きずっていた。季節は律儀なようで、案外、だらしない。切り替えが下手だ。人間と似ている。人間が季節に似るのではなく、季節が人間に似るのだと少年は思った。そう思うほうが都合がいい。自然を自分の延長にすると、少しだけ呼吸がしやすい。
あの日、妹の熱は下がらなかった。
熱は、言葉を奪う。奪うくせに、説明したがる。説明しても、何も変わらないのに、変わりたいとだけ思い続ける。熱は、無駄な野心そのものだ。妹はその無駄の中で眠り、浅い呼吸で、何かを握りしめていた。握りしめているのは布団か、あるいは昨日の何か。昨日の何かは、だいたい、今日には使えない。
叔母は麦を刻み、粥を薄めた。
薄める行為は救済じゃない。節度の猿真似だ。節度は本来、余裕の別名だ。余裕のない節度は、ただの“すり減り”でしかない。だが、すり減りでも、体は動く。動けば、生きる。生きられれば、それでいい。叔母はこういう雑な論法が得意だった。雑さと強さは近い。細やかさと、美しさは、だいたい無縁だ。
夜になるたび、少年は土手の上に出る。
妹が寝ついたあと、外に出る。自分の夜が、そこで形になる。一日のうち、誰にも捕まらない時間はそこでしか残っていない。缶は開けない。開けないことで、今日を“締める”。何かを消費しなかった日は、かすかに誇りがある。誇りと節約を同じ袋に入れると、変な匂いになるが、戦時はその匂いが正義の匂いと呼ばれる。
土手の下では、港の黒い水がうごめく。
魚影は見えない。魚を見た時間と、魚を食った時間は一致しない。食えるものほど見えない。見えるものほど、役に立たない。それは人間も同じだ。見栄えのいいものが、だいたい腹を満たさない。
その夜、少年は“光”を見た。
最初は火事の残り火だと思った。だが違った。火はもっとざらついた色をする。これは丸かった。輪郭が、やわらかい。灯(あかり)というやつだ。
港の反対側で、誰かが“ささやかに”火を焚いていた。
風に煽られた小さな揺らぎ。
それを灯と呼ぶにはあまりに寒々しい。
だが、灯は灯だ。
種類じゃない。存在だ。
少年は土手の草を握り、火の色をそのまま目に入れた。
光の向こうで、かすかに人影が動いた。だれかが薪を寄せている。燃やすものはもう、町には多くない。多くないから、火事は一度しか起こらない。燃えるべきものは、もう燃え尽きた。いま残っている炎は、“意地”の火だ。残り滓の火だ。
意地は、死なない。
意地は、飯より長持ちする。
帰ると、叔母は帳面を閉じかけていた。
「遅かったね」
声は平板で、理由を問う気はなかった。問い詰めると、答えを壊すことがある。叔母はそれを知っていた。
「港で、火が見えた」
「火は消える」
叔母は短く言った。言い切りは未来の拒絶だ。未来の拒絶は、まあまあ便利だ。期待を削る。期待を削ると、生き残れる。
少年は缶に触れた。
叔母は見ていただけで何も言わなかった。
黙った者は、肯定か、不承認か、そのどちらでもない。
中間は冷たい。
冷たいが、物語の温度はそこで決まる。
翌朝、妹の熱はまだ中腹にいた。
高くもなく、低くもない。悲観も楽観もできない熱だ。人間は中間がいちばん疲れる。はっきり悪いと、なぜか元気が出る。はっきり良いと、油断で死ぬ。中間だけが、ただ耐える。
妹は喉を鳴らし、小さく水を求めた。
少年は皿の水を湿らせ、妹の唇を撫でた。
水は無味だが、生だ。
味が無くても、生は生だ。
生きるのは、まず“無味”になれるかどうかだ。
叔母は突然、畑へ行くと言いだした。
畑は“あるようでない”存在だ。焼け跡の端に、半分死んだ土が残っているだけだ。半分死んだ土でも、掘れば何が出る。芋の尻尾、切れた根、石。石は役に立たないが、石で腹は立つ。立った腹で、また何かを拾う。
「根が出てれば持って帰る」
叔母は草履を鳴らして出た。
少年は土手に向かった。
あの灯は今日もあるだろうか。
確認しないと落ち着かない。
光は証拠だ。
証拠は、いちばん薄い希望の皮だ。希望を希望のまま持つには、まず証拠の形で保管する必要がある。“言葉”にすると腐る。
昼すぎ、火はなかった。
灯はなかった。
川の水だけが、昨日より濁っていた。
匂いは変わらない。潮が勝っている。潮はしつこい。
しつこさが勝つほうが、正義に近い。
正義は、意外に、粘りの別名だ。
少年は土手でしゃがみ、石を拾った。
石を投げ、飛距離を見た。
飛距離は自分の“いま”だ。
成長は飛距離と比例しない。
心は飛ばず、石だけが飛ぶ。
それでいい。
石が飛ぶかぎり、何かは続く。
家に戻ると、妹は少し寝返りを打っていた。
悪い兆候ではない。
叔母が戻って来た。
手籠に、細い根だけが入っていた。
「今日はこれだけ」
誇りも、情けも、そこにはない。
ただ、結果。
夜、少年は缶を膝に置いた。
開けなかった。
開けなかったという事実だけが、少年のその日の“働き”だ。
努力は数字じゃない。
努力は消費しなかった時間の裏付けだ。
眠る前、少年は思った。
昨日の灯は、なんだったのか。
火事の残り火ではない。
人の灯だ。
誰かの灯だ。
人の灯は、燃やすと決めた者の印鑑だ。
もし、あれがまた見えたら。
もし、また灯が立ったら。
その時、妹に――
火だと教えるのではなく、
光だと、教えられるかもしれない。
光は未来の別名ではない。
光は“現実が変質した証拠”だ。
証拠がないうちは、希望を語るな。
語ると、希望はすぐ破れる。
破れた希望は、腹の中で刺さる。
妹は寝息を静かに刻んだ。
その寝息のリズムが、少年の呼吸と、どこかで釣り合った。
二人の呼吸が合う夜だけが、
“未来”と呼んでいい夜だ。
明日はどうだ。
知らない。
知らないことは、都合がいい。
知りすぎると、眠れなくなる。
眠れない夜ほど、死に近い。
生きるには、まず眠る。
眠れる者だけが、生き延びる。
缶は、棚の影で静かに転がり、
薄い金属音をたった一度だけ鳴らした。
それで十分だ。
音は、存在の最小単位だ。
存在があるかぎり、人間は死なない。
明日は、また朝が来る。
朝は公平だ。
公平は残酷だ。
残酷は、生きる理由になる。
少年は目を閉じた。
光は、まだ見えない。
だが、昨日、確かに“在った”。
“在った”という記憶だけで、
人間は、少しは持つ。
それでいい。
今日は、それでいい。
第五章 声の重さ

妹の咳は、小さな針みたいに家を刺していた。
針は小さいから侮られる。だが刺さるもののほとんどは小さい。大きいもので刺される人生のほうが珍しい。小ささが人を弱らせる。そのくせ、当事者に自覚がない。戦の“長さ”は小ささの連続だ。
叔母は、朝からまた張り紙を睨んだ。
「無駄をしない」「数える」「黙って働く」
三つとも、うんざりするほど的確だった。
的確は、時に残酷を意味する。
その朝の少年は、言葉を口の奥に押し込んでいた。
昨日、灯を見たこと。
誰かが“意地の火”を燃やしていたこと。
それを言えば、何かが軽くなる気がした。
軽くなってしまったら困る。
軽くなる言葉は、安い。
昼ちかく、叔母は雑巾にした古布を干しながら言った。
「妹は、今日も寝る」
寝る、に救いのニュアンスは何ひとつなかった。
ただの方針決定だ。
“方針”という言葉は、だいたい血の匂いが抜けている。
血を抜いて喋るほうが、大人は安心する。
少年は、土手ではなく別の道を歩いた。
潮の匂いがいつもより濃かった。
濃い匂いは、考えを“短く”する。
考えが短いと、人間は饒舌になる。
饒舌は、弱さの別名だ。
弱さは、立派に生き延びる。
市場には、見知った女がいた。
昨日、配給所で“順番”と言った女だ。
女は籠の底に、魚の尻尾だけを入れていた。
尻尾は売れない。
売れないから、女は尻尾だけを並べていた。
商売にも、意地がある。
意地は、売り物になる。
少年は、声を出そうとした。
「……あの、昨日——」
その先を出す直前、喉が勝手に閉じた。
言葉は一度出ると、その途端に“形”になる。
形になった言葉は、もう取り消せない。
少年は、その“取り消せない感じ”を恐れた。
怖いことほど、喉の奥の熱を増やす。
熱は言葉を重くする。
声には、重さがある。
女は少年をじっと見た。
少しだけ顎をしゃくった。
「お前んとこ、妹か?」
「……うん」
短く返せてよかった。
長く返すと、弱みが混ざる。
「手が冷たいと、熱は残る。熱は残ると、寝る」
それきり、女は黙った。
黙る人間は、信用できる。
饒舌な慰めほど、人を薄くする。
少年は何も考えないまま、魚の尻尾を1本、買った。
買うという行為だけが、意思の証拠だ。
意思があるから、生き残る。
意志(will)より、意思(decision)が先に立つ。
帰り道、少年は初めて自分の“声”について考えた。
声を出す=自分の中身を外に出す。
出した中身は、もう自分のものじゃない。
外に出た瞬間、それは“外の物”になる。
大人は、それを“発言”と呼ぶ。
発言は、だいたい破滅の入り口だ。
言わなければ、破滅は来ない。
言わないことで守れるものがある。
だが、言わないことで失うものもある。
この二つは、いつも並んで存在する。
少年は、まだどっちに倒れるべきか決められない。
家へ戻ると、妹は微かに笑っていた。
笑うほど元気ではないのに、笑う。
理由の分からない笑いは、生の余白だ。
説明できる元気だけが、元気ではない。
説明できないものほど、深い。
少年は、尻尾を見せずに台所へ置いた。
叔母は言った。
「それ、だれに教わった」
「自分で」
嘘でも、半分は本当だった。
女に“言葉”を貰うより、少年は“意地”を受け取った。
人間は、意地を媒介にして生を繋ぐ。
その夜、少年は缶を開けかけて、やめた。
不思議なことに、やめた瞬間、言葉が喉から少し溢れた。
「……きっと、あの灯は、誰かのものだ」
誰かの。
何かではなく。
“誰か”の灯だ。
一度だけ、声を出す。
小さな声。
だが、それでも“声”だ。
叔母は聞いたかどうか分からない。
分からなくていい。
声は、聞かせるものじゃない。
声は、まず自分に届けばいい。
自分に届いた声だけが、自分の骨になる。
少年は、もう少し喋ってみようかと思った。
思っただけで止めた。
止められたことが、今日の収穫だ。
言葉は、使い始める前がいちばん価値がある。
使い始めた途端、価値は下がる。
世の中はたいてい逆に理解する。
人は“喋るから価値がある”と誤解する。
本当は“喋らないうちが、いちばん重い”。
声の重さは、沈黙の中で育つ。
沈黙は、未来の母体だ。
明日は、たぶんまた喋らない。
喋らない日がつづく。
喋らないうちに、言葉は熟れる。
熟れた言葉は、いつか、燃える。
火じゃなくて、灯だ。
灯は、燃料より、意地で燃える。
少年は眼を閉じた。
息は浅く、喉は少し熱かった。
熱は、声の準備だ。
まだ出さない。
まだ要らない。
言葉は、ここからだ。
これからの “重さ” が、ここからだ。
(第六章につづく)

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