佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第二章・第三章

目次

第二章 港の背骨

 朝は、焼け跡にだけ公平だった。

 誰が泣こうが、誰が怒鳴ろうが、朝は勝手に薄ら明るくなる。都合は聞かない。意思を尊重する気もない。太陽はこの国で一番冷淡なものだ。気象庁は彼を讃え過ぎている。あれは称える対象ではない。ただの運動に過ぎない。子どもはそれを経験則で理解する。大人になると理解したつもりになって駄弁る。だいたい間違う。

 土手の上の、あの夜の黒い花は静かに散った。

 町は薄い灰の膜を被り、歩くたびに靴の裏が“ざっ”と鳴る。妹はその音を面白がった。面白がれる年齢は短い。短い時間だけが、子どもに与えられた贅沢だ。だから子どもは贅沢を贅沢だと知らない。知った瞬間、それはもう贅沢ではない。贅沢は意識するだけで自滅する。少年はそれをまだ知らない。知らないからこそ、救われている。

 叔母の家に着いた翌朝。

 少年は、台所の隅に座っていた。叔母は米びつを覗き込み、数字を頭の中で並べ替えていた。ああいう作業は、最初から“どれも足りていない”前提で行われる。足りない前提の計算は、人間を賢くする。だが賢さは幸福と無関係だと知るには時間が要る。

「配給に行ってきなさい」

 叔母は言った。断定の口調。議論の余地など最初からなかった。命令と同義だが、命令と呼ぶと角が立つ。叔母は角を避けるために簡潔に言った。簡潔は、時に暴力より鋭い。

「妹は置いていく」

 妹は少しむっとした。

 でも彼女は泣かない。泣き続ければ空腹が余計に痛む、ということを既に知っている。子どもは必要な知識だけを学習する。余計な情緒教育などいらない。戦時の教育は、背中と空腹がやる。

 少年は靴を履き、缶を手に取った。

 缶は昨日より音が軽かった。残っている飴が減っている証拠だ。数字が残酷なのは、数字が嘘をつかないからだ。嘘をつかないものは信用に値する…と言いたいところだが、現実は逆で、数字ほど信用してはいけないものはない。数字は事実の衣装を着ているだけで、中身は不安定だ。叔母はそれを知っているから、数字を放り込むように扱う。扱いながらも、裏を信用しない。

 配給所までの道には、焼けた家の“骨”が転がっていた。

 骨は立派な死骸ではなく、ただの半端な形骸物だ。人の骨を拾うと罪悪感があるが、家の骨を拾うと罪悪感はない。不思議だ。結局、人間は“形”と“機能”が消えた瞬間に、対象を“物”に降格する。少年はそれを無意識に吸収しながら歩いた。将来、彼が人に対しても同じ処理をしてしまうのは、この頃に決まったことだ。

 配給所の入口には列。

 人が並ぶと、そこに“生”が生まれたように見える。しかし、それは幻だ。列は生ではない。列は“欲”だ。人は欲を順番に並べただけで生命の証拠のように錯覚する。少年は列に並び、妹のことを考えた。考えながら、缶のふたを開けようとした。だがやめた。食べ物は“癖”にすると破滅する。癖は支出の別名だ。

 前の男が怒鳴った。

 怒鳴っても、配給の量は増えない。だが人は怒鳴らずにいられない。それが“自分の存在の証明”の唯一の手段だと思っているからだ。証明は、往々にして無意味な音になる。音は消える。消えた音は、あとに残らない。

「もっとあるはずだろう!」

 叫びは空に溶け、灰と混ざり、風に流れた。

 周囲は冷静だった。冷静というより、諦めていた。諦めと冷静は似ているが、まったく違う。冷静は前を見ている。諦めは地面を見ている。少年は地面を見ていた。少年の冷静は諦めの変装だった。

 自分の番になった。

 米は少し。代用甘味のパウダーはほとんど砂の味。袋は薄い紙で、手汗で破れそうだった。

「これだけ」

 そう言われた。

 “これだけ”は量ではない。宣告だ。

 少年は袋を抱え、土手へ戻った。

 風が強かった。港は、焼け跡より先に風の匂いで生き返る。潮の匂いはしつこい。しつこいものだけが記憶になる。しつこい匂いを嫌う人は多いが、しつこさは生存に直結する。妹はしつこい。だから妹は死なない、と思った。

 叔母の家へ戻る手前、少年は土手の上で立ち止まった。

 昨日、火が落ちた場所が、今日も煙っていた。煙は“まだ死んでない”という証拠だ。中途半端は生の領域で、死は完結の領域だ。

 少年は袋を握りしめ、缶を胸に当てた。

 缶の底が、微かに鳴った。

 音は、一粒の飴の存在を告げた。

 妹のために残した一粒。

 その一粒を守る理由は、説明できない。説明した途端に価値が下がる。価値とは“言語化しない感情”のことだ。言語化は破壊だ。言葉は破壊の道具だ。なのに、大人は言葉を教育する。笑えてくる。

 家へ戻り、妹に一粒を与えた。

 妹は何も言わない。舌の上で一ミリだけ笑った。

 その夜、少年は眠れなかった。

 飴の一粒の価値を、言葉にしてはいけないと思った。

 もし言葉にした瞬間、それは消える。

 だから黙った。

 黙り続ける能力は、強さではない。

 ただの長生きの条件にすぎない。

 少年は知りもしない未来に、言葉を貯めた。

 それは、文字になる前の、手触りのない準備だった。

“あの日をどう呼ぶか”

それはまだ決まっていない。

呼称は、少し大人になってから、ゆっくり決まる。

 夜が深くなり、妹が寝返りを打ち、叔母の咳が一度だけ響いた。

 港の風は、まだ火事の焦げを忘れなかった。

 焦げは長く残る。

 悲劇よりも、悲劇の“残り香”が長生きする。

 少年は眼を閉じた。

 今日の飴は一粒。

 明日は、無いかもしれない。

 だが明日を思うと、腹が鳴る。

 腹の音は、生きている証拠だ。

 証拠があるかぎり、人間は死ねない。

 まだ“蛍”ではない。

 蛍になるには、光がいる。

 この町にはまだ光はない。

 光は、これからのどこかで、やっと現れる。

 光は、希望の別名ではない。

 光は“事実”の別名だ。

 それを少年が確信するのは、まだ先の話だ。

 先の話は、いま語れない。

 語れないものは、語らずに残る。

 残ったものだけが、後に物語になる。

 ——その夜、彼はそれをまだ知らない。

 知らないまま眠った。

 眠ることだけは、人間に許された。

 許されているかぎり、人は生きる。

 朝はまた、公平にやって来る。

 公平だから、残酷だ。

 残酷だから、未来になる。

第三章 叔母の正義

 叔母の家には張り紙が三枚あった。

 一枚目——「無駄をしない」。

 二枚目——「数える」。

 三枚目——「黙って働く」。

 毛筆ではなく鉛筆。紙は古い領収書の裏。墨で書かれた正義は威厳を装うが、鉛筆の正義は生活の匂いがする。どちらにしても、正義は冷たい。冷たいものだけが形を保つ。

 叔母は朝の湯気の向こうから現れて、最初に米びつの蓋を持ち上げる。音は小さい。蓋は、小さい音しかしないように教育されてきた。教育された道具は長持ちする。人間も同じだと叔母は思っている。少年は賛成しない。教育された人間は、たいてい腹を鳴らす時間が長い。

 数えるのは叔母の宗教だ。

 今日の米、何合。麦、何合。薪、何束。

 数字が列をなし、叔母の額に皺を立てる。皺は彼女の家計簿で、嘘をつかない。少年は皺を憎まない。皺の下で生き延びているからだ。だが、憎まないことと、好きになることは別問題だ。大人はしばしばここを混同する。

 妹は朝から咳をした。小さな咳だ。咳はいつも小さく始まる。大きく始まる咳は、もう手遅れだ。叔母は一瞥し、鍋の蓋を上げた。湯がぼこぼこと呼吸して、白い息を吐いた。

「今日の外はやめなさい」

 命令は短い。短さは慈悲の代用品だ。妹はこくりと頷いて布団に戻った。布団は古い。古いものは、誰かの体温の層を何枚も重ねている。人は体温の古い順に眠くなる。妹はすぐ眠った。眠る才能は、生存の才能だ。

 少年は水汲みに出た。ポンプはしぶとく錆び、手のひらを薄く削った。薄く削られた人間は、口数が減る。減らない者は強がっている。強がりは風邪と同じで、寝れば治るが、寝る暇がない。

 帰る途中、土手の上で立ち止まり、港を見た。焦げた桟橋、割れたガラス、遠くで鳴く船笛。まだ動くものだけが音を持っている。動かないものはすべて灰色だ。灰色は中立に見えるが、実は死に肩入れしている。

 叔母の家では、食卓に言葉を乗せない。

 箸が音を立て、茶碗が擦れ、噛むという作業が家の合図になった。

「おいしい?」と妹に問うと、叔母は目で制した。問うな、という合図だ。質問は食欲を減らす。叔母の科学は雑だが、よく効く。

 妹は少しだけ笑って食べた。笑いは調味料だ。高い。

 午後、叔母は古いふとんを裂いた。糸を歯で切り、布を衣に変える。衣は大袈裟だ。実際には雑巾に近い。

「着るものは使うものだよ」

 叔母は言った。

 少年は胸のなかで反発した。布団は寝るものだ。寝るは生きるの一部だ。生きる一部を切って、別の生きる一部に当てる。移植みたいなものだ。移植は成功しても、傷跡は残る。

「文句があるなら働け」

 叔母は言い切った。

 言い切りは議論の葬式である。花も弔辞もない。土だけがかぶさる。

 午後になると、近所が噂を持ってくる。噂は砂糖みたいなものだ。空腹に悪い。

「隣の家、やっと鍋が戻ってきたんだってさ」

「向こうの奥さん、配給所で怒鳴って叱られてた」

 叔母はうんともすんとも言わない。眉がわずかに動く。眉はこの家の警報機だ。

「鍋は戻すもの。怒鳴りは減るもの」

 叔母は算数のように言って、切った布に針を通し続けた。針は迷わない。迷う針は、指を刺す。指はもう何度も刺されて、痛みを言葉に換える手間を省いている。省略は生活の武器だ。

 夕方、少年は芋の皮を剥いた。皮の下にある白を眺める。白は味がない。味がないのは罪ではない。

 叔母は鍋に芋を落としながら、突然、訊いた。

「学校はどうする」

 学校。

 言葉の重さが変わる。

 学校は、終わったようで終わっていない。先生は帰ってこない者と入れ替わり、机は減り、教科書は煤の匂いがする。

「行けるなら行く」

 少年は言った。行かない言い訳はいくらでもある。行く理由は一つで十分だ。

「行くなら、朝の水をもっと早くやれ」

 叔母は労働と学びを同じ段に乗せた。段は低い。低い段から登る癖は、背骨を育てる。

 妹が布団から顔を出し、咳を一つ。

「明日も寝る?」

 妹は頷いた。頷くという努力。小さいが、確かな努力だ。努力は、誰にも知られなくても努力である。

 夜、叔母は帳面に何かを書いていた。

「何を書いてるの」

「数」

 答えは簡潔。簡潔は防御だ。

 少年は缶を取り出した。叔母が目を細める。

「そんなもの、人前に出すほどのものかね」

 少年は蓋を撫でただけで、開けなかった。撫でる行為は消費ではない。叔母はそれを見て、何も言わなかった。何も言わないのは、許可と不承認の中間だ。中間は居心地が悪い。だが、人間はだいたい中間に住む。

 翌朝、少年は市場の手伝いに行った。魚の匂いが強い。強い匂いは、生の証拠だ。

「これ、持ってけ」

 氷の少ない箱に、まだ息のある小さな鰯がいた。

 店の男が少年の手に小銭を握らせた。

「働けば食える。働かなきゃ痩せる。世の中は簡単だ」

 叔母の言葉と同じだ。簡単は強者の言葉だ。だが、強い言葉は、弱い者の背骨にも柱を立てる。少年は嫌いになりきれなかった。嫌いになれない相手は、だいたい親か運命だ。

 昼過ぎ、妹の熱が上がった。

 叔母は味噌を湯で伸ばし、生姜を擦り、首に巻いた。

「医者に——」と少年が言いかけると、叔母は首を横に振った。

「医者は遠い。金は近い。近いほうを見な」

 現実は感情の敵だ。だが、現実は生の味方だ。

 妹はうわ言を言った。言葉の意味は掴めない。掴めなくていい。意味が分からないほうが、心は持つ。意味ばかり分かると、人は薄くなる。

 少年は掌を妹の額に置いた。熱は明確だった。明確なものは、反論を許さない。少年は黙って座った。黙るしかない時間がある。そこに正義は用がない。

 夜更け、雨が降った。

 屋根を打つ音は等間隔で、算盤みたいに心に並んだ。

 妹の呼吸は少し軽くなった。

 叔母は安堵を顔に出さない。

「明日の配給、早く行け」

 命令は救いより先に来る。救いはいつも後手だ。それでも、後手で助かる命もある。

 翌日。

 少年は列の前に並ぶため、暗いうちに家を出た。暗さは公平だ。顔も貧しさも見えにくい。暗闇は人間を一時的に平等にする。

 列の前のほうで、揉め事が起きた。米袋をめぐる小競り合い。声が荒くなる前に、一人の女が前へ出た。

「順番だよ」

 女の声は低く、濡れていた。喪服の黒。少年はそれを記憶した。

 順番。

 正義の最小単位がそこにあった。

 叔母の張り紙の二枚目が頭に浮かぶ。数える。順番は数の列だ。

 配給は予定量に届かず、途中で終わった。

 終わりは唐突だ。唐突な終わりほど、人は静かになる。怒鳴りもしない。空気の温度が一度下がるだけで、諦めは立派な理性の顔をする。

 少年は空袋を折り畳み、土手へ上がった。

 遠くの水面に、小さな光が揺れた。蛍ではない。船の灯だ。

 それでも光は光だ。人は種類より有無で救われる。

 家へ戻ると、叔母が帳面を閉じた。

「無かったか」

「無かった」

「じゃあ、麦を足す」

 即決だ。情を挟まない。情は後片付けの邪魔になる。叔母は食うことだけを考える。

「明日は行くな。別の道を使う」

 叔母の別の道は、物々交換だった。

 魚の骨、古い釘、割れた茶碗。

 使えないものの周辺に、まだ使えるものがある。

 叔母はそれを嗅ぎ当てる。

 彼女は狐でも狸でもない。ただの人間だ。生き延びる訓練を、誰よりも長くやってきた人間。

 その夜、少年は叔母の背中を見た。

 背中はまっすぐではない。曲がっている。

 正義は背中を伸ばさない。伸ばすのは虚勢だ。

 叔母の正義は、曲がったまま前へ進む。

 曲がったものは折れにくい。

 少年はそれを借りることにした。

 借り物の背骨で、明日を運ぶ。

 返すときは少しだけ太くして返す。

 それが礼だ。

 妹は眠り、息は平らになった。

 缶は棚の隅で黙っている。

 今日、缶は開けない。

 開けないと決める。決めるという行為に、わずかな栄養がある。

 人間は、食べずに決定で生きる時間が、少しだけある。

 港の風が変わった。

 焦げの匂いに、潮が勝ち始めた。

 潮はしつこい。しつこさは季節を越える。

 この町は、しぶとく季節に戻る。戻りながら、別の町になる。

 別の町に合う別の言葉が要る。

 その言葉を、少年はまだ知らない。

 知らない言葉は、胸の奥で小さく光る。

 蛍みたいに。

 まだ季節外れだが、光は光だ。

 叔母は灯を早く消した。

「油が減る」

 理由はいつも正しい。

 正しさは寒い。

 寒いから、起きていられる。

 起きていられる者だけが、次の日を迎える。

 張り紙は壁で静かに光っている。

「無駄をしない」「数える」「黙って働く」

 少年は読み上げない。読むと、約束になる。

 約束は食えない。

 だから、覚える。

 覚えたものは、体のどこかで筋になる。

 筋が痛む日が来る。

 痛む日が来たら——書け。

 まだ誰にも聞かされていない命令が、少年のどこかで鳴った。

 叔母の正義が、遠回りで言葉に火をつける。

 言葉はまだ煙だ。

 火になるのは、もう少し先だ。

 夜明け前。

 外はまだ青かった。

 朝はまた、公平に配る。

 配られるのは、冷たさと始まりだ。

 冷たさが先。始まりは後。

 順番を守れ、と叔母が言う。

 順番さえ守れば、少しは生きられる。

 それがこの家のやり方だ。

 やり方は好きでも嫌いでもない。

 生の手触りが、やり方を選ぶ。

 少年は起き上がり、水を汲みに出た。

 手のひらの古い傷が、朝の冷たさで目覚めた。

 傷は記憶だ。

 記憶は、明日を温めない。

 だが、姿勢を整える。

 姿勢が整えば、言葉が整う。

 整った言葉は、人を刺さない。

 刺さない言葉で、世界に穴を開ける。

 穴が開けば、光が入る。

 それを人は物語と呼ぶ。

 少年はまだ名前を知らない。

 だが、背骨はもう、それの形に合わせて固くなっていた。

(第四章につづく)

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