第十一章 読者という怪物
出版記念の朗読会が開かれることになった。場所は、都内の古い講堂。木造の梁が美しく、壁にしみついたカビと歳月の匂いが、どこか“文学的空間”のような空気を醸していた。
編集者の石田は、相変わらず熱心だった。彼の手腕で、私の『父という沈黙』は、思いもよらぬ広がりを見せていた。批評家たちは口を揃えて「私小説の蘇生」と呼び、ある文化人類学者は「この時代において文学が果たしうる最後の誠実な行為だ」とさえ書いた。
私は、そうした称賛を信じていなかった。
賞賛は、沈黙を破壊する一種の暴力だ。
私はただ、父を喪い、村上を悼み、そして太宰の影から逃れたかった。だが世間は、そうした個人的な営為を“文学”に昇華させた瞬間、それを公共の所有物にしてしまう。
朗読会には、百名近い観客が来た。
私は壇上に立ち、自作の一節を読み上げた。最初の一語を口にした瞬間、会場が固唾を呑んだ。静寂が、私の声を刃のように鋭くした。
読み終えたとき、誰も拍手をしなかった。いや、それは無音の拍手だったのだろう。誰もが息を呑み、目を伏せ、或いはまっすぐに私を見ていた。
――視線とは、時に最も残酷な質問である。
終了後、数人の聴衆が私に声をかけてきた。
一人の中年女性が、やや震える声で言った。
「私は、あなたの父のような人を知っています。寡黙で、何も語らない。でも、それでも愛していたんだと、気づきました」
私は頭を下げた。彼女の言葉は誠実だった。だが、それは明らかに私の意図と違っていた。
私の文学は、そうした“感動の共有”を目的としたものではなかった。だが、読者は常に“誤解する”。そしてその誤解こそが、文学を他者に渡すための唯一の通路なのだ。
読者とは、作者が決して制御できぬ“怪物”である。
その夜、打ち上げと称して編集部の面々と小さなバーに入った。
酔った編集者が、うっかり口を滑らせた。
「今度は、お母様との関係も書けませんか? “家族三部作”というのは、売りになります」
私は、グラスの底を見た。
母。――私にとっては、最も傷の深い他者。だが、私はついぞ、彼女について語ったことがなかった。
「あなたの語らない部分が、逆に読者の想像を煽るんですよ。いわば、未開の土地です」
私は、静かに言った。
「私の沈黙は、売り物ではありません」
深夜、宿泊先のホテルで、太宰の『グッド・バイ』を開いた。あの未完の遺作。軽妙な文体、戯画的な人物造形、そして語られぬ“死”の予感。
あれは、太宰が“読者から逃げようとした”試みだったのではないか。
彼は、自分が創り出した“太宰治”という偶像に食い尽くされていた。崇拝と軽蔑、感動と冷笑、その両極に晒され続け、ついには逃亡した。
ならば私は、どうする?
――このまま、読者に食い尽くされるのか?
それとも、己を捨てることで、真の沈黙に至るのか?
翌朝、私は書き始めた。
タイトルは『読者という怪物』
それは、私自身の存在を否定する作品だった。
私が誰かを描こうとすればするほど、その描かれた対象は歪められ、そして読み手の期待に絡め取られる。ならば、私は“誰も描かず、誰にも理解されない作品”をこそ、最後に書くべきではないか。
意味を剥奪し、構造を曖昧にし、言葉を壊し、文体すらも裏切る。
それは、太宰の“未完”を超える、完全な破壊だった。
一週間後、私は原稿を石田に渡した。
彼は読み終えると、しばらく黙っていた。
「……これは、出版できません」
そう言った。
「理由を聞いても?」
「これは文学ではありません。これは、告発でも、詩でも、論でもない。ただの、反逆です」
私は微笑んだ。
「そう、つまりそれが、ようやく辿り着いた“誠実”なんですよ」
その原稿は、結局、出版されなかった。
だが、私は満足していた。
読者という怪物に喰われることを拒んだ。その意味では、ようやく太宰と違う道を選んだのかもしれない。
彼は、自死によって沈黙を守った。
だが私は、言葉によって沈黙を創造することに成功した。
ある日、村上雅志の妹から再び手紙が届いた。
「あなたの新作を読みました。“読めませんでした”。でも、何かが伝わった気がします。兄も、こういう作品を書きたかったのかもしれません」
私は、その一行に救われた。
読者とは怪物である。しかし、時に怪物は、作者を赦す。
私は、最後の原稿にこう書いた。
「沈黙こそが、最も大きな声である」
第十二章 斜陽館にて
すべてを終えた――そう思ったのは、決して誇張でも虚勢でもなかった。
私は書いた。書き尽くした。父を、村上を、自分自身を、そして読者を。もはや私には、語るべき“物語”が残っていなかった。
だが、それでも私は生きていた。
そして、妙な義務感のようなものに突き動かされるように、北へ向かった。青森、金木町。太宰治の生家、斜陽館を訪ねるためである。
十二月、雪はまだ浅かった。
斜陽館は、冬の朝の静謐な空気に包まれていた。観光パンフレットで見るそれよりも、実際の建物はどこか息苦しいほどに閉ざされていた。外からの訪問者を警戒しているかのような佇まいだった。
玄関をくぐると、板の間の冷たさが靴底を通じて脳髄まで沁みた。誰かの囁き声が聞こえる気がした。たぶん、気のせいではない。あの家には、“語られぬ物語”が堆積しているのだ。
受付で記名を求められ、「山田靖幸」と書くと、係の女性が少しだけ目を上げた。まるで私の名に何かを見出そうとするように。
私は軽く会釈し、無言で中に入った。
廊下は、思ったよりも狭かった。
畳の上を歩くたび、微かな軋みが響く。まるでその音こそが、太宰の「声」なのではないかと思われた。
太宰の部屋は、二階の角にあった。
そこで彼は、父との確執を募らせ、東大に入り、政治活動にのめり込み、鎮痛剤と自殺未遂を繰り返しながら、やがて“太宰治”になった。
私は、その部屋の中央に立ち、しばらく目を閉じた。
何も聞こえなかった。
だが、それは虚無ではなかった。
それは、“語るべき声”が枯れ果てた場所の静けさだった。
斜陽館を出て、私は小さな食堂で味噌汁と鮭の定食を頼んだ。老女将が一人で切り盛りしていた。
「作家さんかい?」
と、不意に訊かれた。
私は、否定も肯定もせず、「そんなところです」と応じた。
女将はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと、
「太宰さんも、こっちじゃあ“あまりよく言われてなかった”よ。親の金で道楽したあげく、川で死んだって」
私は、味噌汁を啜った。驚かなかった。むしろ、その俗っぽい評言こそが、太宰にとって最大の“現実”だったのかもしれない。
世間の愛情など、作家にとっては最も毒だ。
夜、宿で日記を開いた。
書くことは、なかった。
だが私は、こう書いた。
「太宰の死は、文学の死ではない。彼の死は、言葉の限界を受け入れた結果であり、むしろ“新しい沈黙”への入口だったのだ」
私は、そう信じたかった。
翌日、川辺に立った。
玉川。太宰が入水自殺した多摩川とはまるで違う、素朴で、灰色で、そして寒々しい川だった。
雪がしんしんと降っていた。川面に音もなく積もり、すぐに溶けていく。
私は、ふとポケットからメモ帳を取り出し、一行だけ書いた。
「沈黙は、書かれたときにのみ完成する」
その言葉は、まるで自身への弔詞のようだった。
帰京の列車の中で、編集者の石田からメールが届いていた。
件名は「読者からの声」。
添付されていたのは、一通の手紙だった。筆跡は稚拙だったが、文体には切実な熱があった。
>「私も、父を亡くしました。あなたの作品を読んで初めて、父と向き合おうと思いました。あなたの“沈黙”が、私の“声”になりました」
私は、画面を閉じた。
沈黙は、声となって他者に宿る。
そしてその声が、また誰かを生かすのだ。
東京に戻った日、私は久しぶりに机に向かった。
書くべきことは、何もない。だが、それが書くことの始まりなのだ。
太宰が沈黙に死を選んだように、私は沈黙から再生を選ぶ。
私は、白紙の原稿に向かって書いた。
「私はまだ、生きている」
その一行が、なぜか全てを言い表しているように思えた。
文学は死なない。
文学者が死ぬだけだ。
(つづく)
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