松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第二十一章・第二十二章

目次

第二十一章 影の契約

 霞が関の地中深く、照明の消えた資料室で、矢代雅史と香西誠二は“国家の眼”に照らされていた。

 目の前の老人――国家戦略室の非公式顧問と名乗った男は、飄々とした物腰とは裏腹に、絶対的な支配の空気を纏っていた。

「我々は、君たちを試してきた。岩城真澄もまた、その一人だった」

 老人の声は低く、どこか冷淡だった。だが、言葉の一つひとつは計算された硬質な鋭さを持ち、香西の胸奥に冷や水のように浸透した。

「試した……だと?」

 矢代が怒気をはらんだ声で反駁する。

「地下鉄サリン事件で、あれほどの犠牲が出た。お前たちはそれを“試験”と呼ぶのか?」

 老人は眉一つ動かさずに答えた。

「それは結果だ。君たちが思う以上に、国家とは不安定な均衡の上に成り立っている。もし、あのときオウムを“早急に潰す”決定をしていたら、我々は、統制不能な報復型のテロを招いていただろう」

「……だから黙認した?」

 香西の声がかすれた。

「そうではない。あくまで、観測し、封じる“間合い”を計っていた。それを可能にするのが“雁木”という装置だ。暴走を許すのではなく、暴走を予測し、制御する。君たちが追い求めてきたのは、その歯車の一部に過ぎない」

 老人は一歩近づき、二人の前に分厚い封筒を置いた。中には、手書きの契約書、国家機密保持の誓約、そして新たな身分証の原案が収められていた。

 「君たちを“構成要素”として迎える。これは命令ではない。選択だ」

 矢代はその書類を睨んだまま、ゆっくりと口を開いた。

「それで、俺たちがそれを受け入れれば、何が手に入る?」

 老人は、わずかに口角を上げた。

「“国家の未来”を俯瞰する視点。そして、自ら歴史の“構造”を設計する力だ。岩城真澄は、その力を恐れ、拒絶した。だが君たちは……まだ曇りを捨てていない」

 香西は目を伏せた。目の前にある現実は、ジャーナリズムの枠では到底捉えきれぬ深さを持っていた。

 新聞、テレビ、ネット、世論――そのどれもが、この“地下の現実”に接続していない。されど、それは確かに国家をかたちづくる土台であった。

「俺たちを……腐らせるつもりか」

 矢代が、まるで呪詛のように吐き捨てた。

 「真実を知っても、声にできぬ立場に押し込める。監視するより、飼い慣らす方が効率的だからな」

 老人は否定も肯定もしなかった。ただ、静かに腕時計を見た。

「今から四十五分後、君たちはここを出ることになる。その時点で、契約書に署名していなければ、二度とこの場所に戻ることはできない。そして“雁木”にも」

 そう言って、老人は闇に溶けるように奥の扉から姿を消した。後には再び沈黙と、裸電球の薄明かりだけが残された。

 重苦しい沈黙の中、香西がぽつりと口を開いた。

 「どうする、矢代……。俺たちは、ここまで来た」

 矢代は言葉を返さず、壁の棚に視線を向けた。無数の“F1ファイル”が静かに彼を見返している。1950年代、60年代、70年代――冷戦下の諜報、思想統制、情報撹乱工作、そして国内の“制御された暴動”の記録。

 全てが、歴史の裏側で糸を引いてきた存在による記録だった。

「真実ってのはな……人の目に晒されて初めて意味を持つ。だがこれは、“晒せない真実”だ」

 矢代の声は、かつての公安時代とは違っていた。怒りでも諦めでもなく、凍てついた洞察がそこにあった。

「俺は……まだ決めていない。だが、あの老人が言った通り、俺たちの目はもう“曇天”を見てしまった。今さら、戻れない」

 香西は頷いた。

「……署名しよう。そして中から、食い破るんだ」

 四十五分後、二人は無言で契約書に署名した。

 すると、部屋の壁の一部が機械的な音とともにスライドし、エレベーターのような装置が現れた。乗り込んだ先は、地上ではなく、さらに地下へと向かっていた。

 数分の沈黙の後、扉が開いた先は、まるで研究機関のようなガラス張りの施設だった。室内では、十数人の男女が端末に向かい、国会答弁、SNS投稿、地方議会の音声ログなどを同時に分析していた。

 「ようこそ、“第零セクション”へ」

 待っていたのは、かつて一度だけ接触した、情報監視官の楢崎だった。彼女の姿も、すでに“上”の人間のものに変わっていた。

 「ここは、雁木の中枢。国家が国家であることを維持するために、すべての“不確定”を設計・予測・制御する場所」

 香西が声を潜めて尋ねた。

 「我々に、何をさせるつもりだ?」

 楢崎は、二人にIDタグを手渡しながら微笑んだ。

 「“国家の曇り”を管理してもらう。“曇天”を読む力を試されるのは、これからです」

 その夜、矢代と香西はそれぞれの新たな“仮住居”へ案内された。そこには一切の個人通信機器はなく、外部との接触も制限される。ただし、すべての情報は彼らに提供される。

 ベッドの横に置かれた一枚の書類――そこには、次に観測・制御すべき“社会的動揺案件”が列挙されていた。

 【次週予定:情報商材型カルト予備動向】【防衛省匿名告発対応案】【生成AI規制政策への反動予測】……。

 矢代は無言でそのリストを睨みながら、胸の内で呟いた。

 ――俺たちは、国家の闇を照らすために、闇の側に立ったのか。あるいは、ただ吸い込まれていくだけなのか――

 曇天は、ますます濃く、低く垂れ込めていた。

第二十二章 仮面の協約

 第零セクションの一室に、鋼鉄のような沈黙が支配していた。

 矢代雅史は、壁面いっぱいに並ぶ液晶モニターを睨んでいた。全国の監視カメラ映像、通信ログ、SNSのリアルタイム解析結果、さらには警察・自衛隊内部からの未発表報告書までもが、目まぐるしく更新され続けている。

 ――ここでは、情報が呼吸し、国家が血を通わせている。

「香西は?」

「B4棟の分析室だ。新しい観測案件に投入されてる。内部告発者の真偽判定だそうだ」

 背後から声をかけてきたのは、楢崎朋美だった。彼女の肩には、以前より一段と重みが加わっていた。国家と共謀する者の、それでいて国家を冷笑する者の表情である。

「お前は、もう染まりきってるようだな」

 矢代は揶揄を込めて言ったが、楢崎は肩をすくめただけだった。

「ここの空気は、じわじわと肺に染み込んでくる。ある日、外に出たとき、空があまりに無防備で愚かに思えるんだ。もう戻れないよ」

 その言葉に、矢代は沈黙で返すしかなかった。

 だが、その時、警報が一つだけ低く鳴った。モニターの一つに、真紅のフラグが立った。表示された文字は、矢代の目を釘付けにする。

 【極秘観測群「蠱毒-7」作動開始通知】【起点:信濃町周辺】【補助分類:再結集】

「蠱毒……?」

 楢崎の顔色が明らかに変わった。彼女は即座に操作端末に向かい、パスコードを三重に入力してアクセス権を上昇させる。

 画面に表示されたのは、ある思想団体の構成図――かつて壊滅したはずの“オウム真理教”の残滓を吸収した新興セクト「灯明会」の動向だった。

「これは……再編か?」

 楢崎は一拍置いてから、低い声で言った。

「いいえ。すでに動き出してる。新しい“事件”が起こる。構造的に導かれた、暴力のシナリオよ」

 その日の深夜、香西誠二は密かに“記録室”と呼ばれる非公開アーカイブにいた。

 室内は常に監視されているが、香西は意図的に“誤作動”を起こし、数分間のブラインド状態を作り出していた。

 彼の目的はただ一つ――“岩城真澄”の残した痕跡を探ることだった。

 彼女が失踪前にアクセスしていたデータベースは、一般のセクション構成員には閲覧できない“階層外資料”に分類されていた。

 しかし、香西は以前彼女が呟いた“裏の入り口”を思い出していた。東西冷戦時代、GHQが使用していた暗号体系を利用した特殊なアルファベット配列。

 それを解読して打ち込むと、一つのファイルが静かに開いた。

 【件名:「蝕」計画概要】

 そこに記されていた内容に、香西の脳は瞬時に凍りついた。

 《蝕計画:国家が極限の混乱に陥った際、秩序再構築のため、一定数の“犠牲”を伴う人工的事件を発生させ、世論を導くための戦略的演出。対象:都市圏、人口密集施設、主要交通機関》

 まるで、1995年に起こった地下鉄サリン事件そのものを写し取ったような記述だった。さらに、その更新履歴には、わずか一週間前、ある職員による“最終承認”のログがあった。

 その職員名を見た瞬間、香西の背筋に戦慄が走る。

 “矢代 雅史”

「……まさか、そんな……」

 香西は混乱の中で呟いた。だが、ログは確かに彼の名を示していた。

 それが偽装か、あるいは矢代本人の意思か、判断はできなかった。

 ブラインド解除の警告灯が点滅し始め、香西は咄嗟にデータをコピーせずにファイルを閉じた。

 今は、証拠よりも“見た”という事実そのものが、香西を危険に晒す。

 翌日。

 矢代は楢崎から呼び出され、別棟のブリーフィング室にいた。

 そこには、彼と同じく“契約者”として組織に迎えられた四人の人間がいた。いずれも公安、検察、情報畑の人間で、冷徹なプロフェッショナルの雰囲気を漂わせている。

 「新しい任務が始まる」

 楢崎が壁面スクリーンを指し示した。

 「対象は“灯明会”と接触したジャーナリスト・城間智信。彼が入手したとされる内部映像に、未確認の生物兵器の記録が含まれている。これが公開されれば、過去の“計画”も洗い出されるリスクがある」

 「処理しろってことか?」

 矢代が問うと、楢崎は冷ややかに言った。

 「“事実”を制御する。それが私たちの役目よ」

 その瞬間、香西が室内に入ってきた。

「待て。矢代には任せるな」

 全員の視線が香西に集中した。

 「……その任務、俺が引き受ける。矢代は“観測”にまわしてくれ」

 矢代が眉をひそめる。

「どういう意味だ?」

 香西はその問いに答えなかった。代わりに、楢崎が首を傾げながら言う。

「あなたがそこまで言うなら、そうしましょう。ただし、“失敗”は許されないわ」

 ブリーフィングが終わり、矢代と香西は廊下で肩を並べて歩いた。

 「何を見た?」

 矢代の問いに、香西は答えない。ただ、低く囁いた。

 「お前を信じたいが、まだ確信が持てない。俺は……真澄の“死”の真相を知りたいんだ」

 矢代は無言で立ち止まった。そして、ゆっくりと香西を見据えた。

 「ならば、お前のやり方で行け。ただし――裏切れば、俺が“消す”。それだけは覚えておけ」

 香西は静かに頷いた。

 その夜、香西は“城間智信”の潜伏先に向かった。

 住宅街の外れにある古びたアパートの一室。部屋の灯りは消えていたが、中には人の気配がある。

 香西は慎重にドアを開け、銃口を向けながら室内に入った。

「城間……」

 ソファに座っていた中年の男が顔を上げた。眼光は鋭く、覚悟の座った人物だった。

「……来たか。国家の犬が」

 香西は銃を下ろさずに言った。

「その映像を渡せ。命を助ける代わりに」

 城間は、薄く笑った。

「もう“向こう”に送ったよ。アップロード済みだ。あんたが俺を殺そうと関係ない。もう、止まらん」

 香西の表情が凍りついた。

 ――情報は、すでに“解放”されている。

 その時、窓の外で閃光が走った。

 数人の黒服の男たちが、無言で突入してくる。

 「第零セクション、特殊班。任務完了のため処分を実行する」

 香西は咄嗟に叫んだ。

 「待て! この男はまだ使える!」

 だが、銃声は容赦なく鳴り響いた。

 城間は、額に一発を受け、ソファに沈んだ。

 香西は拳を握りしめた。血が流れても、もう止まらない。

 情報は、すでに世界へと放たれたのだ。


(第二十三章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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