松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第十七章・第十八章

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第十七章 亡霊の記憶

 午後の霞ヶ関。官庁街の空はどんよりと曇っていた。午前中の騒動が信じられないほど、ビル群は沈黙し、人々は何も起きなかったかのように歩いていた。だが、その仮面の下に、わずかに蠢く不安と猜疑が、煙のように漂っている。

 矢代雅史は、公安庁舎の会議室に戻ると、香西誠二と並んで机に向かった。ホワイトボードには、三島俊彦の顔写真、複数の地下鉄駅の配置図、そしてその中央に――“岩城真澄”の名前が記されていた。

 「……三島は“誰か”に操られている」

 矢代は呟いた。

 「恐怖の演出。毒ガスを使わず、無力感と混乱だけを与える……テロとしては未遂だが、社会への影響力は過去の比ではない。思想的目的をもった扇動者の影を感じる」

 香西は、机の上に置かれた書類の山を手に取り、一枚の手書きメモを差し出した。

 「これは五反田の廃屋で見つかったものです。三島の隠れ家と思しき場所の壁に貼られていた。“今を見よ、されど過去に倣え”──まるで昭和戦前のテロリズムの標語です」

 矢代はその言葉に眉をひそめた。

 「岩城の理屈だ……」

 思えば、25年前、岩城真澄という男は公安の中でも特異な存在だった。法曹界出身の知性と、社会構造に対する冷ややかな分析眼を持っていた彼は、「国家による秩序」がいかに脆弱であるかを執拗に語った。

 ――個人の自由とは幻想にすぎず、国家とは暴力を独占した詐術にすぎない。

 そんな哲学を、彼は平然と口にした。その言葉の多くは記録に残されなかったが、彼を知る者の多くが“危うさ”を感じていた。やがて、岩城は公安を去り、その後の消息は杳として途絶えた。

 そして、今――三島俊彦の行動には、岩城の残した“思想の残響”が色濃く滲んでいる。

 「岩城は死んでいないかもしれない」

 矢代の言葉に、香西が顔を上げた。

 「……証拠は?」

 「証拠はない。ただ、痕跡がある。三島は公安の行動様式を熟知している。マスコミへの情報操作、官僚層の動揺を的確に突いている。誰かが“指南”している。……岩城だ」

 香西は、数秒の沈黙の後、小さく頷いた。

 「今朝、三島の逃走後、都内の図書館検索ログを洗いました。すると、事件直前に“平成初期の地下鉄事情”と“旧・特別高等警察の捜査手法”を調べていた者がいる。それが――三田にある、私人登記された“社会分析研究所”の職員だ」

 「“社会分析研究所”?聞いたことがないな」

 「ペーパーカンパニーです。代表者は“岩城正吾”と名乗っている。だが、身元の確認が取れない。実在の記録は平成13年以降、ぷつりと消えている」

 矢代の眉が跳ね上がる。

 「岩城“真澄”ではなく、岩城“正吾”……」

 「“真澄”は公安に在籍時の名前です。本名かどうかは定かではない。“正吾”も偽名の可能性が高い」

 室内の空気がじわじわと重くなる。

 「場所は?」

 「港区白金。古いマンションの一室です。登記簿では研究所扱いだが、訪問記録も職員名簿も実体がない」

 矢代は立ち上がった。

 「……行こう」

 白金台。閑静な住宅街の一角に、その建物はあった。築四十年を超える古びたマンションで、外壁のタイルは剥がれ、郵便受けには雨に濡れたチラシが詰まっていた。

 3階の突き当たり、302号室が“社会分析研究所”の所在地である。

 香西がインターホンを押した。反応はない。だが、足元に目を向けると、郵便受けの新聞が昨日の日付だった。完全な空き部屋ではない。

 香西が合鍵を差し込もうとしたその時、ドアの内側から“カチャリ”と鍵が外れる音がした。

 息を呑む間もなく、扉がゆっくりと開いた。

 中にいたのは、白髪混じりの男だった。痩せぎすで背は高く、だが姿勢は崩れていない。眼鏡の奥に光る瞳は、かつての公安関係者が口を揃えて言ったように、“底知れぬ闇”を湛えていた。

 「……ようこそ、雅史君。香西君も」

 男は、まるで旧友にでも再会したかのように、柔らかな声で言った。

 矢代は言葉を失った。20年前、公安を去った岩城真澄が、そこに立っていた。

 「なぜ……なぜ、あなたが……」

 「質問は中で聞こうか。君たちが来ることは、予想していた」

 室内は意外なほど簡素だった。書棚、机、そして小さな冷蔵庫。床には古びたラグが敷かれ、コーヒーの香りがかすかに漂っていた。

 岩城は静かに腰を下ろすと、机の上に一冊のノートを差し出した。

 「これは私の“記録”だ。三島俊彦を始め、今回の事件に関わった者たちの思想形成と、その過程をまとめたものだ。読めば分かる――これは単なるテロではない。構造的な反撃だ」

 矢代はノートを手に取った。

 ページには、細密な筆致で書かれた文章と、無数の図表、名前、思想の系譜が記されていた。どれもが、近年の政治・経済・社会に対する冷徹な分析と、それを破壊するための理論装置であった。

 「……なぜ、こんなことを?」

 岩城は目を伏せ、しばし沈黙した。やがて、その口から言葉が漏れる。

 「25年前、私は国家を信じていた。公安として、暴力の芽を摘むことが正義だと疑わなかった。だが、ある日気づいた。国家が正義ではない、ということに」

 「正義の名のもとに行われた監視、情報操作、時に違法な拘束。何を守っていたのか。市民か?秩序か?いや、“体制”だった。……私は、国家が病んでいると感じた。そして、治療には“痛み”が必要だと思った」

 「だからと言って――市民を巻き込むのが正義なのか?」

 矢代の声が怒気を帯びた。

 岩城は微かに笑った。

 「正義?それは君の“文脈”でしかない。私の中では、すでに“定義”は終わっている」

 香西が立ち上がり、背後から拳銃を抜いた。

 「あなたを拘束する」

 「それも予想していた。……だが、私はもう“当事者”ではない。ただの案内人だ」

 岩城は両手を広げた。

 「次は、もっと深いところから来る。君たちはまだ、螺旋の中腹にいるにすぎない」

 その言葉を最後に、岩城真澄は黙った。

 その夜、拘束された岩城は公安の特別留置施設に収容された。

 だが、翌朝。

 監視カメラの記録が消え、岩城の部屋はもぬけの殻となっていた。

 看守は眠らされ、全ての施錠システムは正常のままだった。

 “消えた”のである。煙のように。

 矢代は、事件が終わるどころか、新たな段階に突入したことを悟った。

 “曇天”は、まだ明けていない。

第十八章 幽霧の内部

 東京の空に、六月の湿気が重く垂れ込めていた。冷房の効いた公安庁舎の一室、矢代雅史は報告書の束を前に沈思していた。

 ――岩城真澄の“消失”。

 それは単なる逃亡ではなかった。国家の監視網の只中から忽然と姿を消したその事実は、もはや物理的な行方不明を超えて、組織そのものに対する信頼を根本から揺るがすものであった。

 「何者かが手引きした」

 香西誠二が低く言った。

 二人の間には、すでにそれが暗黙の了解として存在していた。だが、“誰が”という問いに踏み込むには、あまりに地盤が脆かった。なぜなら――それは“内部”にしか存在しない手続きと、裏回線を通じた操作だったからである。

 「監視カメラのデータは、3時42分から3時48分の6分間だけ消失している。しかも不自然なファイル断絶ではない。正規手続きに沿った“削除”だ。ログを読んでも、“記録されなかったことになっている”」

 「つまり、手続きを使って“痕跡”を消したわけだな」

 「内部に鍵を握る者がいる」

 矢代は無言で頷いた。

 公安庁には、表に出ない部署が存在する。“情報戦略課”と呼ばれるその組織は、国の安全保障に直結する情報を、表の法体系とは異なる次元で処理してきた。岩城も、かつてはその末端に所属していたという噂があった。

 「岩城の逃亡は偶然ではない。時間、手口、すべてが綿密に設計されていた」

 香西が机の上に一枚の写真を差し出した。白金の岩城の部屋に残されていたノートの裏表紙に、走り書きされた奇妙な数列が写っていた。

 “2025/0614/0407/E3/R4/K9”

 矢代は何度もその数列を見直していたが、意味は解けなかった。

 「日時のように見える……が、“E3”、“R4”、“K9”が何を指すのかが分からん」

 「エリアの暗号か、作戦コードか……。だが、これを渡してくるということは、“続きを見ろ”という挑発だ」

 「それも、“我々の目の届く範囲で”な」

 二人は顔を見合わせた。

 やがて、香西が意を決したように口を開いた。

 「ひとつ……思い出したことがある。岩城が公安にいたころ、“雁木(がんぎ)”という符牒を使っていたグループがあった」

 「“雁木”?……それは何だ?」

 「正規の課ではない。公安とは別に存在する“情報共鳴体”。一種の極秘プロジェクトだ。国家のためではなく、“国家が何をすべきかを決める人間たち”のための装置だった」

 「それが今も存在する、と?」

 香西は無言のまま頷いた。

 「三島俊彦、そして岩城真澄……。彼らの思想や行動の軌跡は、“雁木”の残した思想的残骸と重なっている。つまり、今起きていることは、テロではなく、“権力構造そのものの裂け目”だ」

 矢代は椅子を蹴るように立ち上がった。

 「“雁木”に接触する」

 「……場所がある。六本木の旧陸軍施設跡地。表向きは放置された防災庁舎だが、かつて岩城が何度も出入りしていた。今もアクセス可能かは分からないが、唯一の糸口だ」

 六本木。真夜中の闇に紛れた旧施設は、コンクリートの塊のように佇んでいた。門は封鎖されておらず、周囲の警備も皆無。まるで“入る者がいない”ことが前提であるかのようだった。

 矢代と香西は裏手から侵入し、暗い階段を降りていった。電源は落ち、非常灯すらない。だが、香西の記憶を頼りに進んでいくと、地下三階の突き当たりに、厚い鋼鉄製の扉があった。

 「開くか……?」

 香西が電子キーパッドに手を伸ばすと、不意に“ウィーン”という微かな動作音とともに、ロックが解除された。

 矢代が息を呑む。

 「誰かが……待っている?」

 扉の先に広がっていたのは、地下とは思えぬほど整理された空間だった。書架、デスク、複数の大型モニター。そして、その中心に――

 「お待ちしておりました、矢代様、香西様」

 若い女の声だった。

 現れたのは、二十代後半と思しき女性。無機質なスーツに身を包み、名札のようなものは一切ない。だが、その顔には見覚えがあった。

 「君は……岩城の部下だった、……水野礼子?」

 「いえ、今は“水野”ではありません。“雁木E3”と呼ばれております」

 「E3……!」

 香西が先ほどの数列を思い出す。“E3”は、この人物、もしくはこの場所のことだ。

 「岩城真澄は、“雁木”のプロトタイプを作り、その構造体を日本社会に適用させようとしただけです。彼の消失もまた、構造の一部。次なる局面へ移行する布石にすぎません」

 「構造……?次なる局面……?」

 「あなた方が知っている“公安”や“警察権力”は、すでに形式的装置にすぎません。現在、この国の本当の中枢を動かしているのは、“選ばれた群体”です。“雁木”はその意思を“可視化”し、“行動”に変換する装置にすぎない」

 「つまり、お前たちは……国家そのものを“代替”しようとしているのか?」

 礼子――E3は静かに微笑んだ。

 「国家という形は、すでに“代替”されています。今はただ、その認識が社会全体に追いついていないだけです」

 矢代は言葉を失った。

 「では……三島俊彦は?」

 「彼は“可視化実験”の一環でした。人間がどこまで“見えない力”に動かされるかを、都市社会の中で試す素材でした。そして成功しました。今、都市は、物理的なガスではなく、“思想”によって崩壊を始めています」

 「岩城は……その先導者か?」

 「彼は“先導”ではなく、“触媒”です。だが、もう彼の役目も終わりました」

 その言葉を最後に、照明がふっと落ちた。

 非常灯すら灯らぬ完全な暗黒。再び明かりが戻ったとき、礼子の姿はなかった。

 翌朝、矢代と香西は公安庁内の調査室にいた。香西は一枚の紙を差し出した。旧内務省の極秘資料のコピーだった。

 「“雁木”は昭和21年、GHQにより一度解体されたはずの“特高”の後継機関として、密かに再結成されていた。背後には占領期から続く“影の秩序設計者”たちがいた」

 「つまり……これは“戦後”の亡霊なのか」

 矢代は、震える手で書類を握った。

 「曇天の中、我々はようやく“輪郭”に触れた。だが――中心はまだ霧の中だ」

 視線の先には、岩城の残したノート。そこには、さらに新たなコードが書き込まれていた。

 “K9=議事堂の第九セクション。鍵は“傍聴”にあり”

 彼らはまだ、螺旋の中腹にいる。

(第一九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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