第九章 逆光の証言
政界が揺れていた。
四月二十日、野党議員の追及によって「94計画」の存在が国会で言及され、数時間後、SNSと独立系ニュースサイトを中心に《国家がサリン事件を“誘導”していた疑い》という見出しが急速に拡散した。
テレビ局は沈黙を守った。大手新聞社も朝刊では一行も触れなかった。
だが、その“沈黙”こそが、疑惑の真実味を濃くした。
その日、白井加奈子は目黒の小さなカフェにいた。週刊誌のフリー記者・野々村と会う約束だった。
彼はかつて朝都新聞の同僚であり、白井が「公安からの圧力」で退職に追い込まれたときも、密かに庇ってくれた人物である。
「正直、これはヤバい火薬庫だぞ。中にいる連中の何人か、昔俺が追ってた“特命案件”と重なってる。
それと──君を見張ってるやつがいる。新宿の取材先、つけられてたぞ」
「公安?」
「か、もしくは政権の私的諜報部隊か。どちらにせよ、内閣情報調査室が関わってる。あそこは公式には“存在していない”部署が多すぎるんだ」
加奈子は一瞬だけ顔をこわばらせたが、やがて口を引き結んだ。
「私はもう逃げない。どんな圧力があっても、これを明るみに出す」
同じころ、志水拓海も別の場所で「過去」と向き合っていた。
訪ねたのは、父・幸雄が勤務していた東都化成の元同僚だったという老人──早川忠男、当時、研究補佐を務めていた男だった。
「幸雄さんは……あの朝、会社からの“指示”で、別ルートの地下鉄に乗るよう命じられていた。何かの実験の“観察”だとか言ってな。わけが分からんが、私はそれが“偶然”じゃなかったことだけは確信してる」
「観察……ですか?」
「都内で“ある種のガス”が散布された場合にどうなるか、というシミュレーションだった。だが、上層部は“情報収集”としか説明しなかった。あとで公安が来て、すべて“機密”にされたよ」
「父は、“監視者”だったんですか……?」
「……あるいは、“証人”だったのかもしれん。だが、真相を知る前に殺された。
いや、“計画通り”に排除されたのかもしれん」
四月二十三日、夜。
佐伯隆一の事務所で、白井と拓海、そして佐伯の補佐である法曹関係者・野田克也弁護士が顔を揃えていた。
「いよいよ、告発を本格化させるタイミングです。
内部告発文書は複数の海外ジャーナリストにも渡しました。国内が潰されても、“海外の声”が圧力になる」
佐伯はPCの画面を回転させた。そこには「サリン事件と国家戦略の関連」という特集を報じる予定の欧州系ニュースサイトの見出し案が映っていた。
「ただ、問題は国内の検察が動かないことだ。内閣と公安が結託すれば、司法の独立性なんてすぐ吹き飛ぶ。
むしろ我々は、“世論そのもの”を先に動かさなければいけない」
「……そのためには、私が出るしかないですね」
白井が決然と口を開いた。
「私が顔を出して、録画インタビューを公開します。“個人としての告発”なら、当局は“無視”できない」
二日後、動画サイトにて、白井加奈子の“顔出し告発インタビュー”が公開された。
タイトルは──
> 『私は見た。サリン事件の“裏側”にいた国家の姿──元記者が語る20年の沈黙』
公開から二時間で再生数は10万を超え、SNSではトレンド入りした。
「事実か陰謀か」「これは反政府活動ではないか」という激しい論争が巻き起こったが、その中で最も注目されたのは、志水拓海が語った一節だった。
> 「父は“偶然の犠牲者”ではなかった。国家の実験台だった。
> 彼の命は、社会制御という名の下に“計算されたリスク”として扱われていた」
その頃、衆議院議員会館の一室では、年配の政治家が携帯を握りしめていた。
田ノ上寛政(たのうえ・かんせい)。かつて槙島と共に「94計画」を主導した一人にして、今なお政界の黒幕と噂される人物である。
「槙島は死んだ。だが、あの手帳がまだ回収されていないとなれば……」
傍らの秘書が問うた。
「対処を?」
「すべて“偶然死”で処理されるなら、それに越したことはない。
だが“白井”は世論の“顔”になってしまった。始末するには目立ちすぎる。
逆に、“個人的な過去の捏造”として潰すしかない」
「スキャンダル工作を?」
「記者時代の“不正報道”、あるいは“情報提供者との関係”だ。
真実を語る者は、最も簡単に“嘘つき”にされる」
数日後。
ある週刊誌が白井加奈子に関する“過去の報道ミス”と“捏造疑惑”を報じた。
あくまで“匿名関係者”の証言による記事だったが、SNSでは一気に「白井=陰謀論者」「売名記者」との批判が沸き上がった。
疲弊した白井は、佐伯の事務所の椅子に崩れ落ちた。
「やっぱり……こうなるんですね」
佐伯は苦い顔をして言った。
「これが“反撃”だ。“報道”に対する最も効果的な反撃は、“記者の人格攻撃”だ。
真実の質ではなく、告発者の“信頼性”を潰す。清張も、生前ずっとこれと戦ってきた」
志水拓海は俯いたまま言った。
「それでも……僕は、あの記事を信じてます。
たとえ記者が誰であっても、父の死が“偶然”じゃなかったことは、もう疑いようがない」
夜、白井の自宅ポストに、一通の封筒が投函されていた。差出人の名はなかった。
中には、白黒コピーされた一枚の写真が入っていた。
──1995年3月、神谷町駅構内の監視カメラ映像。
写真には、マスクをした男性が写っていた。その男の後ろに、立っているスーツ姿の人物。
その人物の顔は、かつて槙島衛と共に写真に写っていた、若き日の田ノ上寛政に酷似していた。
裏面には、こう記されていた。
> 「“政治家”は現場にいなかった──という常識が崩れたとき、
> あなたの告発は“疑惑”ではなく“証明”になる」
第十章 灰の記憶
二〇二五年四月末。
永田町に早くも梅雨のような重い空気が漂っていた。気温は上がり、湿度は肌をまとわりつくようだったが、それ以上に政界の内圧は異常だった。
──“94計画”と呼ばれる国家主導の社会制御実験。
──それに連なる政治家、官僚、そして公安警察。
その輪郭が「告発動画」と「内部資料のリーク」によって明確化し始めると、政権中枢は否定も肯定もせず、ただ“無視”という選択を貫いた。だが、その静けさは、ただの沈黙ではなかった。
“情報の遮断”が始まったのだ。
四月二十八日、早朝。
白井加奈子が起床すると、スマートフォンが圏外になっていた。Wi-Fiも突然切断され、ルーターは「異常なし」と表示している。
窓の外、電信柱の影に、スーツ姿の男が双眼鏡のようなものを持って立っていた。目が合ったとたん、彼はすぐに背を向けて歩き去った。
加奈子は息を詰めた。これまでにない圧力が、自分のすぐ傍まで迫っていることを、体が悟っていた。
一方、志水拓海は佐伯隆一の紹介で訪れた人物のもとへ向かっていた。
目黒区の外れ、薄暗い私設資料館。その地下の一室に、元・国会図書館職員の飯野敬三(いいの・けいぞう)が住み着いていた。
飯野は若い頃、内閣府の要請で「戦後の秘密報告書」を資料化する作業に従事していたという。そこで彼は、奇妙な報告書を見つけていた。
──『自律社会構築に向けた国民心理統制モデル・暫定案』
提出年は1994年、差出人は「臨時社会秩序調査会」となっている。差出人名は記されていないが、巻末に手書きで“槙島”の名が添えられていた。
「これは、計画がまだ“実行”される前の草案だ。
“都市災害シミュレーションの名を借りた国民反応測定計画”──いわば、あの事件の“設計図”だな」
拓海は喉がひりつくような感覚に襲われた。
「……これを、使わせてください。事件が“偶発”ではなく、“段階的に仕組まれた”ことを、示すために」
「構わん。ただし気をつけろ。お前が手にしてるのは、“情報”ではない。“弾丸”だ。
撃った瞬間、お前にも引き金を引いた報いが来る」
同日夜、佐伯の事務所に集まった三人──白井、拓海、そして佐伯は、飯野から受け取った報告書を前に沈黙していた。
加奈子が静かに口を開いた。
「田ノ上寛政が神谷町駅に“いた”という写真、あれが証明されれば、この設計図が現実と接続される」
佐伯がうなずく。
「だが、写真だけでは足りない。“目撃者”が必要だ。
当時、その駅構内で警備を担当していた者を探す必要がある」
拓海が顔を上げた。
「父の同僚に、“防犯システム設計”をしていた人がいました。生きていれば、まだ都内にいるはずです」
四月三十日。
その男、山科透(やましな・とおる)は、調布市郊外でひっそりと暮らしていた。
志水幸雄の親友であり、事件当日、都営地下鉄の監視システム点検のために現場を巡回していた元技術者である。
「……写真、見せてもらえますか?」
加奈子がそっと渡した白黒コピーを手に取り、山科はしばし固まった。そして、深く頷いた。
「この男、いました。
事件の二週間前、構内システムの“点検視察”の名目で、官邸から来ていたんです。
私には“公安の管理職”としか言われませんでしたが、……今思えば、彼が田ノ上だったのかもしれない」
加奈子の指が震える。拓海は一歩前に出て、声を押し殺した。
「証言、していただけますか? 匿名でも構いません」
「……記録に残してくれるなら、やります。
あの日、幸雄さんが何を見て死んだのか、それを知りたいのは、私も同じですから」
翌日。
音声付き証言、飯野から提供された設計図草案、内部文書の複写。
それらを組み合わせた“第二弾告発動画”が制作された。仮題は──
> 『灰の記憶──サリン事件と国家計画の交差点』
公開は五月一日。
新たな証言に加え、監視カメラの分析や構内図との照合まで盛り込んだ、異例の“市民制作ドキュメント”となった。
配信後、一夜にして再生数は30万を超えた。今度は海外メディアも取り上げ、BBCやドイチェ・ヴェレが日本語字幕付きで特集を報じ始めた。
だが、その余波はすぐに「本格的な封殺」となって返ってくる。
動画配信サイトは突然、運営方針の変更を理由に動画を“非公開”とした。
白井の自宅には「不審火」が発生し、郵便受けが焼けただれた。さらに、山科透の自宅には警察が“銃刀法違反の疑い”で家宅捜索を行い、パソコンを押収していった。
証言は封じられ、資料は奪われ、SNSでは「国家反逆のデマ情報」というタグがトレンド入りした。
それでも、加奈子と拓海は動きを止めなかった。
「真実を公にする」ことは、彼らにとってすでに職業でも正義でもない。“約束”だった。自分たちがこの渦中に生き残る限り、それを果たす以外に道はなかった。
五月二日。
朝日が昇る直前の東京湾岸。
拓海と加奈子は、佐伯の車で静かに走っていた。
「これからどこへ?」
「ある場所へ。……父が最後に残した“録音テープ”がある。
それを保管してくれていた人が、ようやく応じてくれた」
「録音……?」
「父は事件直前、電話で“すべてを記録しておく”って言ってた。
自分が消されたときのためにって。──それが、最後の鍵になるかもしれない」
車はやがて、お台場の倉庫街の一角に入っていった。
白い光の中で、都市の輪郭がゆっくりと浮かび上がっていく。だが、その中に何が待つのか──加奈子には、予感ではなく“確信”が芽生えていた。
この先にあるのは、国家の記憶そのものだ。
(第十一章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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