第五章 声なき者たち
その男は、眼鏡の奥に異様な静けさを宿していた。
「佐々木健一。元・警視庁公安部化学対策課所属」──白井加奈子の前に座った彼は、名乗りこそ素直だったが、その口調には一切の情緒がなかった。
都内、池袋の喫茶店。店内の客はまばらで、スピーカーからは薄くスムースジャズが流れている。
「あなたが、五反田の施設について話したいと?」
白井の問いに、佐々木は無言で頷いた。
「私はあの施設の“技術管理官”だった。正式には公安の下請け業者という名目で、実験室の構築、化学物質の管理、職員の教育を担当していた」
「“教団の施設”とされていましたが、実際は?」
「違う。“教団施設”に偽装された公安の“管理区域”だった」
白井のペンがわずかに止まった。
「つまり……公安が教団と“協働”していた?」
「正確には“利用”していた、ということです。オウム真理教は、一部の科学技術者を抱えていた。彼らの中には、正規の大学院で有機合成を学んだ者もいた。公安は、彼らに“装置”を作らせた。そのための資金は、宗教活動の名目で流し込まれた」
「なぜ、そんなことを……」
佐々木は口の端にかすかな笑みを浮かべた。それは冷笑に近かった。
「国家は、国内における“制御された恐怖”を必要としていたからです」
「制御された……?」
「九〇年代、日本の治安は相対的に安定していた。だが国際情勢は違った。冷戦後の混乱、イスラム原理主義、東アジアの核開発──そうした“外部の敵”に対応する名目で、国内にも“非常時の論理”が必要だった。そこで教団が利用された」
白井は、自分の掌がじっとりと汗ばんでいるのを感じた。
「あなたは、事件が起こるのを知っていた?」
「正確に言えば、“何かが起こる可能性が高い”とは感じていた。だが、私たち下位職員に与えられる情報は断片的だ。ある日、上から命令が下った。“全職員は現場から退去せよ”と。三月十九日の午後だった」
「それが事件の、三日前……」
「しかもその指令には、“機器をそのままにしておけ”という一文が添えられていた」
「つまり、装置は教団側がそのまま使ったと?」
「そうです。だが、正確に言えば、“使わせた”」
その言葉は、明確だった。
同じ日、警視庁本庁舎の地下三階、公安部会議室では重苦しい空気が張り詰めていた。
局長直属の密室会議。捜査一課からの“情報漏洩”を憂慮する者たちが集められていた。
机上には、一通の内部文書が配布されていた。
> 『警視庁・公安調査庁 合同監視計画要綱(非開示)』
その中には、「オウム真理教化学部門人材活用計画」なる項目があり、教団内研究者の動向を継続的に“監視・観察・分析・導導”する方針が明記されていた。
導導──それは、“導き導かせる”という公安内部で使われる隠語だった。
「……この文書が、外部に流出した場合、我々は国家犯罪の共犯と見なされかねない」
そう述べたのは、公安部総括官・海老原だった。額には薄く汗が浮かんでいた。
「ただちに“佐々木”の動向を確保しろ。白井加奈子の取材記録も、すべて押収する」
「逮捕状は?」
「要らん。任意同行で十分だ。マークされていたはずだ」
「……監視対象としては?」
「レベルB。メディア関係者としては低いが、今後の言動によっては即時昇格。公安としては、報道の自由より“沈黙の秩序”を優先する」
その日の夕刻、白井加奈子は自宅マンションのエレベーターを降りた瞬間、異様な気配を感じた。
薄暗い廊下の奥に、立ち尽くす男がいた。スーツに黒縁眼鏡。会社員風の出で立ちだが、身体の重心が不自然に揺れていた。
「……加奈子さん、ですね?」
男は声をかけた。
「公安です。お話をうかがいたい。任意ですが、協力をお願いします」
「どの件で?」
「地下鉄サリン事件に関連する情報収集活動について。あなたの接触者リストに“佐々木健一”が含まれていることを確認しています」
「任意ですよね?」
「はい。ただし、ご協力いただけない場合、捜査協力義務違反として文書提出命令を行使します」
白井は唇を噛んだ。
「……わかりました。ただし、録音させてもらいます」
「問題ありません。正当な手続きですから」
だが、その“正当さ”こそが、最も危険な虚構だった。
その夜遅く、佐伯隆一のもとに、一本の電話が入った。
「……白井記者が公安に連行されました。都内某所にて。恐らく取材記録も押収されるでしょう」
「やはり動いたか。奴らにとっても、彼女はもう“越えてはいけない線”に近づきすぎた」
「佐伯さん、ここで黙っていていいんですか?」
電話の声は震えていた。
佐伯は、しばらく沈黙した後、静かに言った。
「そろそろだ。次の一手を打つ。最後のカードを──切る時だ」
翌朝、朝都新聞の編集局に一通の封筒が届いた。差出人不明。
中には、公安部極秘会議の録音データと、“五反田実験施設”の設計図、さらに佐々木健一による詳細な供述文書が同封されていた。
封筒にはこう記されていた。
> 真実は、誰かが伝えねばならない。
> それが命を賭けた行為であっても。
東京の空は、灰色に沈んでいた。
春の兆しは遠く、曇天は、螺旋のように静かに回り続けていた。
第六章 告発の温度
三月二十四日午前六時、朝都新聞社の編集局三階、社会部会議室の窓にはまだ薄明かりが届いていなかった。蛍光灯の白い光だけが部屋を照らし、床に積まれた校正刷りの束が、読まれることもなく沈黙していた。
編集デスクの大谷耕作は、紙袋に入れられて届いた一式の封筒資料に目を落としながら、口元を噛んでいた。
──これは、確かに“爆弾”だ。
録音された音声データの中には、「導導」「監視育成」「制御恐怖」といった公安用語が幾度も繰り返され、明確に「教団勢力の一部を統制下に置いていた」旨が語られていた。証拠として同封された内部図面には、既に新聞が掴んでいた「五反田施設」と一致する詳細な構造と、放棄された器材の種類まで記載されている。
「……これは、出せば大きくなる。だが……」
大谷の脳裏には、過去に経験した“報道潰し”の記憶が蘇っていた。
一九九五年三月、サリン事件直後にあるフリー記者が「教団と国家機関の癒着関係」を独自に掘り起こし、掲載を企てた。だが、情報は事前に公安に察知され、記者は“取材費名目の金銭授受”を理由に事情聴取を受け、結果的に消息を絶った。
──白井も、同じ轍を踏んだのか?
大谷は封筒の裏に書かれた一文を読み返した。
> この資料は、佐伯隆一氏を通じて送られたものです。
佐伯隆一──その名を見た瞬間、記憶の底に沈んでいた記者としての本能がよみがえった。
十年前、“赤坂スキャンダル”で公安の非公式盗聴を暴いた元新聞記者。現在はジャーナリズムの最前線から退き、民間のシンクタンクで“治安と報道”の研究を続けていた。
「……電話をかけよう」
だがその瞬間、扉がノックされた。
現れたのは、報道局の編成本部員、白川課長だった。背広の襟に小さな公安警備章を隠すようにピンで止めている。
「おはよう、大谷くん。例の資料、受け取ったかね?」
大谷はゆっくりと封筒を机に戻した。
「はい。かなりのものです。国家機密に属する内容もあります」
「それで……君の判断は?」
「編集部の判断としては……掲載は保留です」
「賢明だ。時勢というものがある。今は“安全保障”が優先される時期だからな。社会の混乱は避けるべきだ」
大谷はうなずいたが、胸の内では別の思いが揺れていた。
──真実が、社会不安を生むという理屈は、いつから常套句になったのか。
その日の午後、白井加奈子は都内某所、公安調査庁・特別取調センターの一室にいた。
長机、無表情の取調官、壁に掛かったデジタル時計──そこには法廷も弁護士もなく、ただ“監視と記録”だけが存在していた。
「白井さん。あなたが佐々木健一から提供を受けた資料は、国家の安全保障に関わるものであり、外部に拡散された場合、刑事特別法に触れる可能性があります」
取調官の男は、台本でも読んでいるように抑揚のない声で語った。
「記者の取材行為は違法ではないはずです」
「一般論としては、そうです。ですが、今回は“国家機密漏洩”という側面があります。あなたが今後もこの件について口外しないと約束するなら、早期の釈放も検討できます」
白井はじっと男を見つめた。
「それは、脅迫ですか?」
「提案です。選択の余地があるだけ、まだ恵まれている」
その瞬間、ドアが開き、別の職員が書類を手に入ってきた。
「……上の判断が変わった。釈放だ」
「……は?」
「ただし、報道活動は制限される。出国は禁止。記者会見、SNS利用もすべて事前許可制とする。“黙る自由”があなたには与えられる」
釈放された白井を待っていたのは、佐伯隆一だった。
東京駅近くの地下駐車場で彼女を迎えた佐伯は、黙って助手席のドアを開けた。
「乗れ。こっちはもう動き出している」
「新聞社には?」
「送った。だが掲載は“保留”だそうだ」
「じゃあ……何も、変わらないんですか」
佐伯はハンドルを握りながら、前を見たまま言った。
「いや、変わった。もう“知ってしまった者たち”が、後戻りできなくなった。それだけで十分だ」
「告発は、無力じゃない?」
「無力かどうかを決めるのは、今ではない。“後”だ。五年、十年後に、それが“力”だったとわかることがある。清張が描いたのは、そういう真実だった」
三月二十六日、朝都新聞の一面には、こう記されていた。
> 「地下鉄サリン事件に関する公安監視体制の実態──民間施設に偽装された化学拠点」
記事は匿名の情報提供に基づくとしつつも、「国家機関と教団との不透明な関係」を指摘し、「真相解明のためにはさらなる検証が必要」と結ばれていた。
同時に、特集ページでは“記者・白井加奈子によるレポート”という形で、教団施設の現地調査や内部構造の写真が掲載された。
ネット上では賛否が渦巻いた。「陰謀論だ」「勇気ある報道だ」「政権批判のための印象操作だ」──そのすべてが、告発の温度を物語っていた。
そして、ある大学の研究室で、一人の青年が記事を読みながらつぶやいた。
「……俺の父が死んだのは、この事件のせいだった。ようやく……何かが見え始めた」
机の上には、当時の都営地下鉄の乗車券と、父の遺影が置かれていた。
(第七章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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