最終章 読者よ、君に告ぐ
六月の終わり、東京は黄砂を帯びた雨に濡れていた。私の書斎の窓にも、あの独特の薄黄の斑点がこびりつき、どこか記憶の影のように曇っていた。
“懺悔記”の最終稿は印刷所に渡り、初校も終わった。石田からは「ついに、お前の“声”が一冊の本になった」と短い祝電が届いた。あれほど生々しく私の内部を裂いた原稿が、紙という物質に還元されていく過程を、私はもはや冷静に眺めることができるようになっていた。
もはや、私は何者にもならない。
作家でも、文学者でも、観察者でも、語り手でもない。
私はただ、“言葉を書いた者”として静かに終わりを迎えようとしていた。
それでも、人間というものは、徹底して自己を終わらせることができない存在なのだろう。
私はときどき、古書店を訪ね歩いた。理由はなかった。ただ、かつて誰かが書いた“語り残し”を手に取ることで、自分が何をしていたのかを確かめたかった。
ある日、神保町の裏通りにある名もなき古書店で、私は一冊の文集を見つけた。
『水の骨』
著者名はなかった。だが、表紙に印刷された手書きの書体が、私の記憶を突き刺した。
私が大学時代に書き、誰にも見せぬまま引き出しの奥にしまい込んだ未発表原稿――。
間違いない。これは、私の“原罪”だ。
私は震える指でページを捲った。
そこには、まだ未熟な、だが嘘のない言葉が並んでいた。技巧も思想も持たぬ、ただ純粋に「語りたい」という本能だけが宿った文章。
>「人は皆、何かを見捨てたまま生きている。
> そして文学とは、その“見捨てたもの”への呼びかけにすぎない」
その一節を読んだとき、私は書店の椅子にへたり込み、声を出さぬまま泣いた。
ああ、私は最初からすべてを知っていたのだ。
罪とは、忘れること。
懺悔とは、思い出すこと。
そして文学とは、記憶に輪郭を与えること。
その晩、私はもう一度だけペンを取った。
“懺悔記”の最終章のあとに、エピローグとも言うべき短い章を書いた。
もはや出版されることはない。それでも私は書かずにはいられなかった。
「エピローグ――読者よ、君に告ぐ」
君は私の言葉を読んだ。
それは私にとって、奇跡に等しい出来事だった。
私は誰かに伝えるために書いたのではなかった。むしろ、誰にも見つからぬように、暗闇の中でこっそりと灯を点けていたのだ。
だが君は、その微かな光を見つけてくれた。
それは、私という存在の全肯定であり、全否定だった。
読者よ。
私という人間のすべてが“罪”だったのだ。
語らなかったこと、語ったふりをして語らなかったこと。自分を隠して他人を描いたこと。言葉を選ぶことで、自分の弱さから目を逸らしたこと。
私はすべてを文学に変えた。
けれど、文学は赦しではなかった。
むしろ、文学こそが私の罪を照らし出す光だった。
君は今、それを読んでいる。
君が誰であろうと、私にはわからない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
君のなかに、“私の声”は入り込んだ。
そしてその声は、もはや私のものではない。
君の中で、新しい声として育ち、新しい言葉となって世界に出ていく。
それが、私にとっての救いだった。
語り手としての私の旅は、ここで終わる。
だが、“読む者”としての君の旅は、ここから始まるのだ。
君が誰かの声に耳を澄ますとき。
君が誰かの沈黙に名を与えるとき。
君が誰かの記憶に言葉を与えるとき。
そこに、私が生きる。
そして最後にもう一度だけ、こう書こう。
私の名は、山田靖幸。
私の職業は、懺悔する者だった。
私はペンを置いた。
書き残しは、もうなかった。
空白のページが一枚、静かに机の上に落ちた。
それが、私の人生の“最後の一頁”だった。
数日後、“懺悔記”が刊行された。
書店に並んだその本の帯には、石田の一文が記されていた。
>「これは物語ではない。これは祈りである」
そしてその祈りは、静かに、確かに、誰かの手に渡っていった。
(完)
コメント