第九章 純粋なる誤解
朝刊に、自分の名が載っていた。
社会面の下段、文化欄の隅。誰もが気づかぬような場所に、だが私にはあまりに鮮烈な活字が印字されていた。
「自殺した友人を題材に小説――元同人作家の“死者商法”」
その記事は、おそらく編集者の誰かが“気を利かせて”書いたものであったのだろう。私が村上雅志の死を題材に書き上げた短編集『他者の皮膚』が、ある小規模な文学賞の最終選考に残ったことが、皮肉にも一般紙の目に留まったというわけだ。
中身は凡庸な批評文である。だが、言葉の行間に、吐き気を催すような下卑た懐疑があった。
「死者の人生を搾取してまで文学を成り立たせようとする試みは、果たして“誠実”と呼べるのか」
私は、紙面を破った。
これが、社会というものなのだ。
文学が純粋であればあるほど、それは“誤解”される。むしろ、純粋であるがゆえにこそ、“意図”や“下心”を読まれるのだ。死者の声を継ごうとする行為すら、金銭欲や名誉欲の延長として語られる。
だが、私は怒らなかった。怒る資格が、私にはなかったのだ。
――なぜなら、私はかつて、太宰治という“死者”を喰い物にしていたからだ。
記者からの電話が鳴ったのは、その日の午後だった。
私は躊躇なく応答した。男の声は冷静で、礼儀正しかった。
「あなたの作品について、少しお話を伺いたいのですが。なぜ実在の人物を題材に?」
私は答えた。「彼は、友人だった」
記者は訊ねた。「あなたは、彼の死を利用しているとは思わない?」
私は、沈黙した。
その沈黙は、私にとっての“倫理”の時間だった。そこで安易に「違う」と答えることは、言葉を武器として使いこなしてきた者の傲慢だ。私は、言葉を愛してきた。だが同時に、言葉の恐ろしさも知っていた。
「私は、彼の沈黙に負けたくなかった。ただ、それだけです」
それが、私の答えだった。
その夜、私は久しぶりに、文学の師と仰いだ男に電話をかけた。
かつて同人誌を共に作った先輩であり、現在は大学で教鞭をとる、その名を鎌田という。
「お前は、ついに他者を書き始めたな」
鎌田はそう言った。
「だが、覚えておけ。他者を描いた瞬間、お前は“社会”と手を組んだことになる。文学は、社会と対立するのではなく、共犯関係に陥るんだ」
「じゃあ、どうすればいいんです?」
私の声は、情けなく震えていた。
「書き続けるしかない。そして、そのたびに“赦しを乞う”ことだよ」
“赦し”という言葉は、太宰的である。
だが私は、その言葉を“祈り”とは捉えなかった。むしろ、それは“契約”だった。
――他者の声を使う代わりに、その重みを背負う。
それが、現代における“純文学”の条件だ。
もはや読者の信仰など存在しないこの世界で、我々は、己の誠実さだけを武器に闘うしかない。
週末、私は文学賞の最終選考会に招かれた。
小さなホールに集まった十数名の作家、批評家、編集者たち。皆、優しげな笑顔を湛えていたが、その目は濁っていた。作品にではなく、“作家の人格”に値札をつける目だ。
壇上に立ち、短く挨拶を求められた。
私は迷いなく、こう言った。
「この作品は、死者への供養ではありません。これは、私自身が“赦されるため”に書いたものであり、その意味で、誰にも媚びていないと信じています」
会場は静まり返った。
誰も拍手をしなかった。だが、私は構わなかった。
私は、ようやく“太宰の影”を抜け出していた。
選考結果は落選だった。
審査員の一人が、私に個別にこう告げた。
「あなたの作品は、あまりに真面目すぎる。“文学性”というより、“告白”に過ぎないと感じました」
私は頷いた。
その通りなのだ。私は、もはや“物語”を書いているのではない。
私は、“告白”の連続の中で、生きている。
だが、そこにこそ、かつての太宰もまた生きていたのではないか?
帰宅後、私は鏡を見た。
そこに映っていたのは、かつて私が憧れた“作家”ではなかった。
もっと薄汚れていて、傷だらけで、懺悔をやめようとしない男の姿だった。
だが私は、その顔を嫌いではなかった。
文学とは、ただの自己表現ではない。
他者を通して自分を見つめ、その視線を受け入れる試練なのだ。
翌朝、村上雅志の妹から手紙が届いた。
「兄の作品を、読んでくださってありがとうございます」
便箋には、丁寧な筆跡でこう綴られていた。
「兄のことを、誰かが覚えていてくれるだけで、救われます。兄は、生きていたんだと、思えます」
私は、その一文を百回以上読み返した。
そして確信した。
文学は、“誤解される”ことを恐れてはならない。
誤解の中にこそ、真実は立ち上がる。
私は新しい原稿に、こう題をつけた。
『誤解される誠実』
太宰治もまた、生涯にわたって誤解され続けた。
ならば私も、それを受け継ごう。
誤解されることでしか辿り着けない、純粋という幻想の、そのさらに奥へ。
第十章 汝、血を忘るなかれ
父が死んだという報せは、まるで悪文のように唐突で、悪趣味で、そして、どこか感情を持ち込む余地がなかった。
告げたのは、病院の看護師だった。機械的な口調で、「急性心筋梗塞」「予後不良」「午前三時十二分」という無味乾燥な言葉が続いた。
電話を切った私は、しばらくソファに腰を下ろしたまま、何一つ考えなかった。ただ、太宰の『人間失格』の最後の一文が、どこからともなく蘇ってきた。
――あの人は、まことに、善良な人でした。
そう、父もまた、“善良”ではあったのだろう。だがその善良は、私にとって何の慰めにもならなかった。
父とは十年以上、音信を絶っていた。
文学を志すと言ったときのあの白けた顔、母が死んだときのあの妙に他人行儀な弔辞、私が小説に自らの少年期を書いたときの、あの怒声。
「これが、お前の“誠実”か!」
――誠実。
私は父の怒りを今、少しだけ理解できる気がした。死者の声を利用し、自らの文学に昇華すること。それがいかに“残された者”を傷つけるか。私はすでに、村上の妹という“無言の審判”を経ていた。
では今度は、私自身が裁かれる番なのだろうか。
葬式は質素だった。参列者も少なかった。かつての同僚と、町内の数人。そして、私。
喪服に袖を通したのは、いつぶりだったろう。鏡に映る自分が、あまりに“まとも”で、むしろ不気味だった。
焼香の順が回ってきたとき、私は微かに指先を震わせた。
棺の中の父の顔は、穏やかだった。老い、痩せ、死に、ただ静かに横たわっていた。そこに怒りも、愛も、失望も、何もなかった。
私は胸の内で、こう問うていた。
「あなたは、私を赦したのか。それとも、忘れたのか」
葬儀が終わったあと、遺品整理のために、実家へと戻った。
あの家に入るのは、母の四十九日以来だった。埃っぽく、空気が死んでいた。だがその中に、妙な“文学的秩序”があった。
――死者の不在は、空間に厳粛さを与える。
机の引き出しを漁っていると、一冊のノートが出てきた。
黒い表紙に、乱れた筆跡でこう書かれていた。
「靖幸(やすゆき)へ」
それは、父の私宛の手記だった。
手記には、父の過去が記されていた。
彼の少年時代、戦後の混乱、若き日の夢、母との出会い、そして私の誕生。
知らなかったことばかりだった。彼もまた、文学を愛していたのだ。
ただし、読む側として。
太宰治、坂口安吾、そして、三島由紀夫――。父の記す感想は、拙く、誠実で、無防備だった。
「人が死ぬとき、その人生に意味があるかどうかなど、もう関係がない。ただ、その人が何を信じていたか、それだけが残る」
――そう書かれていた。
私は、初めて涙をこぼした。
書斎の隅に、古びた文庫があった。
そのすべてに、鉛筆で線が引かれていた。太宰の『斜陽』、三島の『金閣寺』、安吾の『堕落論』。
父は、私の知らぬところで、私と同じ風景を眺めていたのだ。
だが、彼は一度として、書くことを選ばなかった。
私は、自問した。
「それは、強さか。弱さか」
答えは出なかった。ただ、ある確信だけが残った。
私は、書かねばならない。父のことを。
だがそれは、村上雅志のときよりも困難だった。
他人の死は、ある意味で“素材”たりうる。だが父の死は、あまりにも近く、あまりに“私の中にある”のだ。
書き出せば、すぐに嘘になる。
美化すれば欺瞞となり、醜化すれば復讐になる。
私は、机の前で何度も原稿を破り捨てた。
ある夜、夢に父が出てきた。
白い着物を着て、何も言わず、ただ私の前に立っていた。
私はその夢の中で、涙を流しながら叫んでいた。
「赦してくれ!」
父は、静かに首を振った。
「赦すとか赦さないとか、そういう問題じゃない。お前は、お前を書け」
そう言った。
目が覚めたとき、私は久しぶりに筆を執った。
タイトルは、『父という沈黙』
私は、ありのままに綴った。
嫌悪も、尊敬も、哀しみも、すべて一つの文体に収束させようと努めた。
私は“書く”ことでしか、父と語れなかった。だが、それこそが私の血であり、遺伝であり、宿命だった。
完成した原稿を、父の仏壇に供えた。
そして、ひとつまみの線香を焚いた。
煙が昇っていく。
どこか、父の背広の匂いがした。
私は、胸の奥で呟いた。
「俺は、お前の息子でよかった」
(つづく)
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