藤沢周平を模倣した小説『風の残響』第七章・第八章

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第七章・春雷の兆し

 春は、ある日ふいに匂いを変える。

 その朝の風は、まさにそれだった。寒さの底にかすかな湿気を含み、かき交ぜるような気配を運んでくる。

 香月庵裏の闘いから二日が経ち、町は穏やかな陽差しに包まれていた。だが、新九郎の胸の内は、まるで籠に押し込めた雷のように、静かに鳴っていた。

「このまま、ただ手をこまねいているわけにはいかぬ……」

 彼は手元の書状を見つめていた。

 千絵から渡された「偽の証文」。確かに筆致は加納伊織のものではない。だが、それが広まれば、真偽を問わず、尾張の名誉は地に落ちる。

 そして、その混乱を望む者がいる。

(やはり、裏で糸を引くのは――)

 思考を遮ったのは、戸口に立つ志乃の声だった。

「新九郎様」

 彼女の瞳はまっすぐに彼を捉えていた。

「わたくしを、お連れください」

 新九郎は、少し驚いたように眉を動かした。

「どこへ?」

「この先の探索に。兄のこと、すべてを知りたいのです」

「……これは、命を落とすやもしれぬ道だ」

「それでも」

 志乃の声には、微かな震えと、強い決意が宿っていた。

 新九郎はふっと口元に笑みを浮かべた。

「父上譲りだな」

「……?」

「加納伊織殿も、そうして命を賭けておられた」

 それだけ言って、新九郎は懐から一通の文を取り出した。

「これは、京の裏目付を務める田淵典膳殿から預かった密書。今、江戸城内で水面下に起きている動きが記されている」

 志乃は手を伸ばし、文を受け取った。

 墨の色がまだ新しく、筆圧も深い。

《三月十五日未明、尾張家中より密書漏出。背後に、老中・朽木源四郎の名あり》

「……朽木?」

「老中の中でも古参、表向きは泰平を望む穏健派。だが裏では、幕府改革に反発しておるという話だ」

 新九郎の目が鋭くなる。

「志乃殿。今回の騒動の裏には、おそらく朽木がいる。そして、千絵を動かしていたのも――」

 そのとき、ふすまが音もなく開いた。

「わたしです」

 千絵だった。

 その姿は、前よりも落ち着いて見えた。短く結った髪、地味な浅葱色の着物。目にはもう、迷いの色がなかった。

「わたしは……朽木源四郎に拾われました。父を亡くし、家も焼け……行き場のなかったわたしを助けてくれたのです」

 志乃は黙って聞いていた。

「恩義を感じ、命じられるままに動きました。最初は、新九郎様を討つように。そして、証文を奪うように」

 新九郎は何も言わない。

「けれど、わたしは……信じられなかった。加納伊織が裏切るような人物だと。志乃様の言葉を聞いて……やっと、目が覚めました」

 しばしの沈黙ののち、新九郎が口を開いた。

「ならば、どうする。おぬしがこれからすべきことは、わかっておるか」

「はい」

 千絵は、深く頭を下げた。

「朽木源四郎の動きを、わたしが追います。……命に代えても」

 志乃が言った。

「命など、代えになりません。代わりに、真実をつかんでください。兄の名誉を、すべての光の下に晒すために」

 千絵は、ほんの一瞬だけ目を潤ませた。

 そして、決然と立ち上がった。

 翌日――

 新九郎と志乃は、人混みの多い神田明神の裏手にいた。

「ここに、旧幕臣の浪人たちが身を寄せる隠れ家がある。朽木の配下が、密談に使っていたという噂もある」

 二人は、表通りから外れ、古い長屋の裏手へ回った。

 土壁のひび割れた戸を、静かに押し開ける。

 埃と酒の臭いが鼻を突く。

 中には、数名の浪人風の男たちがいたが、新九郎の顔を見ると一人が立ち上がった。

「おう、柿本の旦那か……久しいな」

「赤井。朽木源四郎の動きについて、何か聞いておらんか」

 赤井と呼ばれた男は、無精髭を撫でながらうなずいた。

「ちょうど昨夜、妙な話を耳にした。朽木が、ある大名家を巻き込んで、一斉蜂起を企てていると」

 志乃が息を呑む。

「どこの大名家です」

「上州・内藤家。旗本の中では地味だが、兵を多く抱え、江戸に屋敷も多い。表向きは無風だが、裏では朽木とつながっているらしい」

 新九郎は顔をしかめた。

「内藤……あそこは、伊織殿がかつて仕えていた家でもある」

 赤井がうなずく。

「今夜、内藤家の江戸屋敷で密会があるらしい。朽木が出向くという話だ」

「そこに乗り込む」

 新九郎の言葉に、志乃が目を見開いた。

「今からですか」

「ここで手をこまねいていては、また誰かが血を流す。真実を、この手でつかまねば」

 志乃は、きつく唇を結んだ。

「わたしも、行きます」

 新九郎は言いかけて、それを飲み込んだ。

 彼女の目に、迷いはなかった。

 そして、二人の影は、夕闇の中へと溶けていった。

第八章・密会の庭にて

 夜の深さは、時に言葉を奪う。

 その晩の空は月も雲に隠れ、ほの暗い霞が地を這っていた。

 内藤家の江戸屋敷は、神田から少し東に寄った高台にあった。屋敷の周囲は土塀で囲まれ、裏手には竹藪が広がっている。新九郎と志乃は、竹藪の小径を辿りながら、息を殺して塀際に近づいた。

「志乃殿……ここから先は、言葉一つで命を落とす場所です」

 新九郎は、念を押すように言った。

 志乃はただ一度、深くうなずいた。

「兄の名誉のため、わたしの足は引きません」

 新九郎の目が、一瞬柔らかくなった。だがすぐに、また剣士のそれに戻る。

 二人は塀を越え、ひっそりと屋敷の裏庭へ降り立った。

 濡れ縁の先に、ひとつだけ灯りがあった。格子戸の向こうには、三人の人影がある。

 新九郎は、懐の巻紙を取り出し、小さな折れ釘に巻いて志乃に手渡した。

「もしものときは、これを京の田淵典膳に。……逃げられる道を、先に覚えておいてくれ」

 志乃は受け取ったが、返す言葉はなかった。

 新九郎は、庭石の陰を伝いながら縁の下へ回り込んだ。そこからは、薄明かりの部屋の中が見える。

 正面に座っていたのは、老中・朽木源四郎だった。

 白髪をぴしりと撫でつけ、痩身に紫の羽織をまとっている。その隣には、武家風の壮年が控えていた。内藤家の家老だろう。

 「……加納伊織の娘は、まだ生きていると申すか」

 朽木の声は低く、ねっとりと湿っていた。

「はい、尾張を出た後、ある町屋に潜んでいたとのこと。すでに女の足取りは掴んでおります」

「そうか……ふむ、ならば手配せよ。今度こそ、確実にな」

 志乃が小さく身を震わせた。

 新九郎は、微かに唇を結んだ。

 朽木は、手元の文を扇子で仰ぎながら、続けた。

「加納伊織が遺した密状。あれを今さら証とされては、困る。何としても、消し去らねばなるまい」

「千絵殿の働きは……」

「裏切ったな」

 声が冷たくなった。

「仕方あるまい。あの女も、所詮は娘よ。あとは、内藤家の御子息・忠義様に火を点ければ済む話。――準備は?」

「はっ。浪人衆は、すでに二十名ほどが屋敷裏の蔵に」

「よろしい。江戸城で火が上がれば、我らの策は一気に進む。幕府を改め、余計な者どもを掃き捨てる。武家政の原点に戻るのだ」

 その言葉を聞いて、新九郎はついに確信した。

(やはり、この男がすべての黒幕……)

 そのときだった。

 どこかで、小枝の折れる音がした。

 ――志乃が動いたのか? いや、別の者だ。

 朽木の顔が、わずかに動いた。

「……誰か、いるな」

 内藤家老が立ち上がる。

「裏を見てまいります」

 足音が、縁の方へと近づいてくる。

 新九郎は息を殺し、鞘に指をかけた。

(仕方あるまい……!)

 縁下から飛び出し、目の前に現れた家老の顔面に肘を叩き込んだ。間髪入れず、肩をつかんで障子の中へ投げ飛ばす。

 部屋が騒然とする。

 朽木が立ち上がり、目を剥いた。

「貴様……!」

「加納新九郎。伊織殿の弟子にして、今や尾張の名代。お主の悪逆、ここにしかと見届けた」

 新九郎は刀を抜いた。

 内藤家の家臣が、短槍を持って飛び込んでくる。

 新九郎はすかさず踏み込み、刀の柄で相手の手首を砕き、刃を一文字に走らせた。槍が落ちるより早く、相手は倒れ伏す。

 朽木は戸口の奥へ退いた。

「おのれ……出会え、出会え!」

 新九郎は、すぐに部屋を抜けて裏庭へ走った。

 縁下で待っていた志乃が、息を詰めた目で彼を見た。

「今すぐ離れろ。奴らはすぐ兵を差し向けてくる」

「でも……!」

「行け!」

 志乃は渋々うなずき、竹藪の方へ走り出す。

 その背中に、新九郎は小さくつぶやいた。

「――すまぬ」

 その夜、内藤家の屋敷は火の手を免れた。

 だが、江戸の風は確実に変わり始めていた。

 一方――千絵は、その夜、ある文を手にしていた。

 「朽木源四郎が江戸城にて反乱を企てる」という密状。

 それは、田淵典膳の屋敷から新九郎によって送り届けられたものだった。

 千絵は、その書状を前に、筆を取る。

 震える手を落ち着けながら、一通の返書を書く。

《己が過去の過ち、必ず償います。どうか、新九郎様と志乃様を……守ってください》

 その筆致には、迷いはなかった。

 春の風が、紙灯の火をわずかに揺らしていた。

(つづく)

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