藤沢周平を模倣した小説『風の残響』第十九章・第二十章

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第一九章・御目見の座

 江戸城西の丸御役屋敷。

 早朝の白い靄がまだ城の庭を覆っている時刻、座敷の畳には、すでに複数の役人が座していた。

 その中央には、老中・河尻備中守。そして彼に連なる筆頭目付・佐原平四郎が席に着き、その向かいに新九郎と千絵が正座していた。

 重々しい沈黙の中、河尻が低く言った。

 「加納新九郎、千絵どの。おぬしらが差し出した書付、まことに驚くべき内容である。堀口主膳殿が、かかる大事に関与しておると申すか?」

 新九郎は一礼した。

 「はい。これは亡き朽木源四郎殿が遺した証文。内容には、堀口主膳殿と岩城屋の潰し、ならびに影組を使った市中攪乱の詳細が記されております」

 千絵が懐から文箱を差し出し、佐原が受け取る。

 開かれた箱の中には、朽木の筆跡で記された巻物と、堀口の手印が押された奉行所控状の写しが揃っていた。

 佐原は目を通し、わずかに眉を動かした。

 「……これは、確かに朽木の筆である。そしてこの書付、堀口殿がかつて“岩城屋の調査は不要”と断じた内容と相違ない」

 河尻が目を伏せ、しばし沈黙した。

 そして、静かに言った。

 「その堀口主膳、まもなく参る。ここで直々に問いただそうではないか」

 その頃、堀口主膳は屋敷から出る直前だった。

 羽織を整えながら、側に立つ一人の若侍に言った。

 「もし余の口から、この座を去ることになったなら……“あれ”を使え。江戸の外れの庄屋衆を動かせ」

 「承知いたしました。もはや後はございませんな」

 「ふん、長きにわたって保ってきたものよ……。だが、すべては“正義”のためであった」

 堀口の目は、燃えるような光を宿していた。

 やがて、堀口主膳が座に現れる。

 黒羽二重の裃に身を包み、堂々とした足取りで畳を進むその姿に、座中の空気が一段と張りつめた。

 河尻が問う。

 「堀口主膳。この文書の件、貴殿に覚えはあるか?」

 堀口は巻物を一瞥し、口元に笑みを浮かべた。

 「覚えがあるとも、ないとも申せまいな」

 「なにゆえ?」

 「このような文書、いかようにも偽造はできましょう。筆跡など真似る者もおり、花押などは商いの中で散らばる」

 新九郎が進み出た。

 「では、証人を立てよう。堀口殿が影組を動かした証として、今ひとり……町医師・古渡玄斎が証言を持っております」

 その名を聞いて、堀口の顔がわずかに強張った。

 「古渡……あの男がまだ生きていたか……」

 その瞬間だった。奥から駆けてきた小姓が、血相を変えて叫ぶ。

 「申し上げます! 外で騒動が……! 城門前に、槍と長巻を手にした者どもが集まっております!」

 一瞬で座中がざわめいた。

 堀口が低く笑う。

 「……やはり、間に合わなかったか」

 その声に、河尻が目を見開いた。

 「堀口、おぬし……何を仕組んだ」

 堀口は立ち上がり、きっぱりと答えた。

 「正義を守ったまで。幕府の綱紀が乱れ、江戸の町が腐る中、私がやらねば誰がやるのだ」

 そして、腰の短刀に手をかけた。

 新九郎が、即座に立ち塞がる。

 「もはや逃れられませぬ、堀口主膳。罪を問う声は、もはや一人や二人のものではない」

 堀口は一瞬、目を伏せ――やがて短刀を鞘に納め、観念したように座り直した。

 「……終わったか」

 堀口主膳はその後、役宅にて拘束され、佐原の指揮の下、正式に老中会議にかけられることとなった。

 混乱を避けるため、城門前に集まった私兵たちは追い返され、江戸の町はようやく安堵の空気を取り戻しつつあった。

 千絵は、座の端で静かに涙をぬぐった。

 その肩を、新九郎がそっと支えた。

 「……父上も、きっと空の上で笑っておられましょう」

 千絵はうなずき、新九郎の手を取った。

 日が西に傾き、二人は江戸城を後にした。

 その帰り道、神田川のほとりで、ふと足を止める。

 千絵が言った。

 「新九郎様。これから、どうなさいますの?」

 「まずは、田淵家のことを整理します。その後は……」

 言葉を止め、川の流れを見つめる。

 「この江戸で、剣を捨て、筆を持とうかと」

 千絵が驚いたように目を見開く。

 「筆を……?」

 「朽木殿が遺した言葉がある。正義は剣によってもたらすものではなく、人の心によって育まれると」

 千絵は、しばらく黙っていた。

 やがて、微笑んだ。

 「ならば、わたくしも……その隣においてください」

 川の水面が、夕陽に照らされて金色に揺れていた。

 静かに、そして確かに、新たな時代が始まろうとしていた。

第二十章・剣の名残

 春の光が、ようやくやわらぎを帯びた午後。

 加納新九郎は、神田・田淵家の屋敷にて、ひとり硯に向かっていた。

 墨をすり、筆をとる。だが、筆先はまだおぼつかない。

 剣の柄は握れても、筆の運びには未だ不慣れである。

 「習うより慣れろ、とは申しますが……こればかりは、馴れが要りますな」

 振り向くと、文左衛門が胡座をかいて茶を啜っていた。

 「だが、不思議なもんです。これまでは、おぬしの隣には常に血の匂いがあった。今は、ただ墨と湯気の匂いしかせん」

 新九郎は小さく笑った。

 「血の匂いを洗い流すのに、これほど手間がかかるとは思いませんでした」

 ふたりはしばし無言で茶をすすった。

 かつての喧騒が嘘のように、屋敷の周囲には穏やかな風が吹いていた。

 その頃、千絵は本所・相生町にある寺に詣でていた。

 朽木源四郎の墓前に、白い椿の花を手向ける。

 「お父様……全てが終わりました。新九郎様がすべてを終えてくださいました」

 声はかすかに震え、だがどこか、晴れやかでもあった。

 その背後に、ひとつの人影が立った。

 「あなたの父君は、よい志をお持ちであった」

 声の主は、佐原平四郎であった。

 彼は、静かに手を合わせながら続けた。

 「私が若かりし頃、朽木殿には何度も指南を受けた。剣だけではない。“人の上に立つには、まず己を知れ”――あの方は、常にそうおっしゃっていた」

 千絵は深く頭を下げた。

 「佐原様……ご助力、痛み入ります」

 「いや、礼には及ばぬ。これは、私のけじめでもある」

 しばしの沈黙の後、佐原は去っていった。

 その夜――。

 田淵家の屋敷には、思いがけぬ客が訪れた。

 現れたのは、なんと、堀口主膳の嫡男・堀口新一郎であった。

 痩身で、年は新九郎と同じかやや下。

 だがその目には、父とは異なる憂いの色があった。

 「父が……すべてを認めたと聞きました」

 新九郎は、静かにうなずいた。

 「はい。老中評定の場にて、私心なき職務であったと、最期まで申しておられました」

 「そうですか……」

 新一郎は、懐からひとつの包みを差し出した。

 中には、短冊と一振りの短刀が納められていた。

 「これは、父が生前に遺したものです。『もしわが過ちが世に露わとなり、加納新九郎殿が真に“武士”であると感じたならば、これを届けよ』と」

 新九郎は、短刀を見つめた。

 柄に巻かれた革紐が、かすかに色褪せていた。

 「……お受けします。だが、これはもはや、斬るためではなく、繋ぐための太刀と致しましょう」

 新一郎は、深く頭を下げた。

 「父の名に、報いる覚悟を持ちます。加納様、いつか再び、お会いできる日を」

 そう言って、新一郎は去っていった。

 翌日――。

 新九郎は、千絵と連れ立って、神田の町を歩いていた。

 市が立ち、町人たちが活気にあふれている。

 人々の表情には、どこかやわらかな光が宿っていた。

 「町が、少しずつ戻ってきました」

 千絵の声に、新九郎は頷いた。

 「ええ。剣では守りきれなかったものが、こうして立ち直っていくのを見届けるのも、また務めでしょう」

 そのとき、ふと、ひとりの子供が駆け寄ってきた。

 「お侍さん、これ落としたよ!」

 差し出されたのは、小さな木刀だった。

 どうやら、商家の荷車の上から落ちたらしい。

 新九郎は笑って受け取った。

 「ありがとう。これは君が持っていた方が、きっと役に立つ」

 「えっ、くれるの?」

 「大事にしなさい。正しい人になるんだ」

 そう言って、新九郎は木刀を手渡し、再び歩き出した。

 背後で、子供の笑い声が響いた。

 夕暮れ。

 神田川の橋の上で、ふたりは立ち止まる。

 水面には茜色が映り込み、やわらかに揺れていた。

 千絵がそっと言った。

 「……明日、わたくしは尾張に戻ります」

 新九郎は目を伏せ、しばし言葉を探した。

 「……そうですか」

 「御家の再興と、母の看病と……それに、少し、頭を冷やす時間がほしいのです」

 「無理もありません。あなたは、たくさんのことを背負いすぎた」

 「いいえ。新九郎様のおかげで、すべて救われました。……だけど、いまは“娘”に戻りたいのです」

 新九郎は小さく頷いた。

 「いつか……戻ってきますか?」

 「……はい。そのときは、どうか、また筆の使い方を教えてくださいませ」

 ふたりは静かに笑い合った。

 風が吹き、橋の欄干の上を、ひとひらの椿の花が転がっていった。

 別れは静かに訪れ、静かに過ぎていった。

(つづく)

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