第五章・香の余韻
春の風が、浅草寺の瓦を撫でていた。
志乃は、町屋の二階の窓辺に座り、遠くの空を見つめていた。ほんの数日前まで、自分がこんな世界に足を踏み入れることになるとは、夢にも思っていなかった。
兄の死。
柿本新九郎との出会い。
そして、千絵という女の出現。
千絵は申し分ない立ち居振る舞いを見せた。言葉は丁寧で、志乃に対する敬意にも嘘はなかった。けれど――
(何かが……おかしい)
志乃の胸の奥に、微かなざらつきのような違和感が残っていた。
たとえば、千絵が使った香。
上等な白檀の香だったが、それは武家屋敷で使われるにはやや馴染みがなく、どこか異国の混じったような匂いだった。
(江戸で育った娘なら、選ばぬ香り……)
そんな小さなことが、志乃の胸の奥に棘のように残っていた。
その夜、新九郎が屋敷を訪れた。
志乃が戸口を開けると、新九郎は少し険しい顔をしていた。
「すまん。話したいことがある」
志乃は頷き、茶を用意して部屋に迎え入れた。
「……書状の中身を見ました。そこには、尾張中納言の直筆の誓紙が入っていたのです」
「尾張……」
「徳川の中でも、勤王とされた家です。だが、実際には、幕府に密かに忠誠を誓っていた」
志乃の手が、茶碗の中でわずかに震えた。
「では、その書状が公になれば……」
「尾張家は失墜し、現幕政も動揺する。誰がそれを望むのか――裏に、何者かの意図がある」
志乃は黙ってうなずいた。
「……千絵という女」
新九郎が、ふいに切り出した。
志乃の心臓が、小さく跳ねた。
「おぬし、何か感じておらぬか」
志乃は少し迷ったが、やがて静かに頷いた。
「……あの人、嘘はついていません。けれど、すべてを話してはいない気がします」
「目が、違う。剣を使う者の目だ」
新九郎の声は低く落ちていた。
「剣……?」
「あれは、何かを殺めてきた者の目だ」
志乃は口元を押さえた。千絵の微笑――あの冷たい、柔らかさの裏にあるもの。
「……まさか、敵なのですか」
「まだ決めつけるには早い。だが、今夜――ひとつ、試させてもらう」
新九郎は立ち上がり、障子の外に視線を向けた。
「千絵を、呼んでくれぬか」
その夜、柿本新九郎は茶の席を設けた。
小さな離れの間に、炭火がくゆり、釜の湯が沸く。障子の隙間から月明かりが漏れ、白く床を照らしていた。
千絵はいつものように、穏やかな笑みを湛えて現れた。
「お呼びいただき、光栄です」
新九郎は、静かに茶碗を差し出した。
「香を、少し焚いた。落ち着いて話をしたい」
「ありがたく頂戴いたします」
千絵は膝を折り、丁寧に茶を口に運んだ。
その一連の動作に、まったく隙はなかった。だが――新九郎は見ていた。
その背の伸ばし方。呼吸の置き所。茶碗を置いたときの指の角度――
それらはすべて、体術を心得た者の所作だった。
「……千絵殿」
「はい」
「おぬし、どこで剣を学んだ?」
一瞬、空気が張り詰めた。
千絵は目を伏せ、軽く笑った。
「隠していたわけではありません。昔、父が道場を開いておりました。女であっても、身を守れと、手ほどきを受けたまでです」
「なるほどな」
新九郎の口元には、笑みが浮かんでいた。だが、目は笑っていなかった。
「今夜、おれは出る。少しばかり、人に会わねばならぬ。志乃を頼む」
千絵は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
新九郎は部屋を出ていった。
千絵は、その背中が見えなくなるのを確かめると、すぐに懐から小包を取り出した。
薄紙の中には、小さな書付が一枚。
《夜九ツ、亀戸・香月庵裏にて集会あり》
千絵はそれを灯明の火にくべ、灰になるのを見届けた。
その頃、深川の廃屋には、再び梶間兵馬が姿を見せていた。
膝をついて報告する男に、短く命じる。
「千絵はまだ新九郎のそばにいるか」
「はい。信用を得た様子です」
「よし。書状を取り返す必要はない。新九郎を……動けなくすればよい」
男は頷いた。
「では、香月庵にて……」
「ああ。そこに、奴を誘い出せ」
兵馬の目には、冷たい光が宿っていた。
ついに、剣を交える時が来た――
月は、夜の頂に昇っていた。
新九郎は、香月庵の裏路地に立っていた。夜風に乗って、梅の匂いが流れてくる。
(来るか……)
その時だった。闇の中から、四つの影が現れた。
いずれも黒装束。長巻、脇差、手裏剣。それぞれの技を携えた、選ばれた刺客だった。
「柿本新九郎。我ら、ここにて貴様を屠る」
新九郎は、ゆっくりと刀を抜いた。
その刃は、夜気を裂き、月明かりを跳ね返す。
風が止まり、闇が揺れた――。
第六章・月影の乱刃(らんじん)
夜の香月庵裏。
月が真上にあり、白々とした光が石畳に落ちていた。
四人の刺客が、無言で間合いを詰めてくる。
新九郎は、左足を半歩引き、鍔元に神経を集中させた。
――まずは、槍。
最前に出た男の槍が、真っ直ぐ喉を狙って突き込んできた。
風を裂く鋭い音。だが、その刹那、新九郎の身体は風より早く動いていた。
すっと身を沈め、逆に男の懐へ入り込む。
そして一閃。
刃が横に走ると、男の首が斜めに裂け、血が舞った。影が倒れる音が、夜に響いた。
「退け」
叫んだのは、手裏剣を構えた細身の男。
その手から、銀の刃が連続して放たれる。
新九郎は鞘で受けながら一歩、二歩と下がった。
背後にある石垣を見やり、一瞬の計を練る。
(こいつら、鍛えてあるな……)
左手の甲が切られていた。痛みはあるが、筋には届いていない。
三人目が抜き足で迫っていた。脇差の使い手だ。体勢を低く、地面を這うように近づく――これは、地刀と呼ばれる卑劣な流派。
――が、新九郎はそれを見越していた。
足元の砂をつま先で蹴り上げる。土煙が舞い、目潰しとなる。
「ッ……!」
その一瞬で新九郎は跳び、脇差の男の背後を取った。
斜めに振り下ろされた剣が、肩口から腹まで一気に裂いた。
男は呻きもせず崩れ落ちる。
残るは一人。
長巻を構えた大柄の男だった。
距離を取って睨み合う。
男の構えは崩れず、呼吸一つ漏らさない。まるで岩のようだった。
(あれは……一の太刀で斬れぬ)
だが、斬らねばならぬ。
風が動いた。
次の瞬間、新九郎が踏み込んでいた。
足裏で石畳をしならせ、一気に飛ぶ。
その動きはまるで、水面を翔ける燕のようだった。
長巻が横薙ぎに振られる。
だが、それを刃で受けるのではない。
新九郎は――刃を捨てた。
抜刀のまま鞘を放り投げ、男の目を眩ませたその瞬間に、空いた右手で男の脇腹に手刀のような一閃を放つ。
突きの形を取った刀が、鳩尾を貫いた。
「がっ……!」
大男が呻き、膝をついた。
刃は深く入らずとも、命を奪うには十分だった。
すべてが終わるまで、ほんの十数呼吸。
香月庵裏には、ふたたび静寂が戻っていた。
その頃、町屋の中では、志乃と千絵が向かい合っていた。
千絵は白粉を落とし、薄紅の着物に着替えていた。
香の香りは弱まり、素の顔が浮かび上がる。
「志乃様。今夜は、眠れそうにありませんか」
千絵が声をかける。
志乃は、少し間を置いて答えた。
「ええ。兄の夢を見ました」
「どのような?」
「泣いていました。何も言わずに、ただ……こちらを見ていた」
千絵の瞳が、わずかに揺れた。
「……志乃様。もし、兄上が何かを遺していたとして、それが人を傷つけるものだとしたら、どうされますか」
志乃はきっぱりと答えた。
「兄の心を信じます。それが、間違いだとされても」
しばし、沈黙が流れた。
千絵は静かに、立ち上がる。
「わたくしは……昔、父を裏切られたのです」
「……え?」
「父は勤皇派として動いていました。けれど、ある大名に密告され、切腹しました」
千絵の言葉は、まるで風に紛れるように小さかった。
「その者の名を調べたとき、加納伊織という名が出てきたのです」
志乃の目が見開かれた。
「兄が……?」
「信じたかった。でも、調べれば調べるほど、裏切りの証が浮かんできた。だから……私は、兄上を許せなかった」
千絵の唇が震えた。
「けれど、志乃様。あなたの目を見て……少し、わからなくなってしまった」
その言葉に、志乃は何も言えなかった。
ただ、目を伏せ、指を強く握るだけだった。
夜更け――
新九郎が戻ったのは、空がわずかに白み始めたころだった。
額には汗。左の袖は血に濡れていた。
「……片が付いた」
玄関に出た千絵と、戸口に立つ志乃が顔を上げた。
新九郎は千絵を見て言った。
「お主……何者だ」
千絵は、しばらく何も言わなかった。
そして静かに、懐から細い巻物を取り出した。
「加納伊織が裏切り者である」という文が、そこにはあった。
新九郎はそれを受け取り、目を通すと、顔をしかめた。
「これは……偽筆だ」
「え……?」
「裏切り者として記されているが、筆致が違う。加納伊織の書状を、何通も目にした。これは――違う」
千絵の表情が、崩れた。
手の中のすべてが砂になって崩れ落ちるように。
目の奥に、涙がにじむ。
「わたしは……父の仇を……」
そのとき、新九郎は静かに、千絵の肩に手を置いた。
「それでも、お主の目は、迷いを知っていた。だから……斬らなかった」
志乃は、何も言わずに立っていた。
その姿が、まるで春を告げる梅の花のように、儚くも強かった。
(つづく)
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