第三十九章 灰色の矢印
夕暮れの東京湾沿い。かつて新興宗教団体が実験施設を建設しようとして中断された区画に、一人の男が立っていた。
白髪まじりのその男――望月良治は、元国家公安委員会の参事官であり、かつて地下鉄サリン事件の初動対応に関わった人物だった。事件から三十年近く経った今、再びこの地を訪れたのは、単なる懐古からではない。
彼の手元には、一枚の航空写真があった。90年代初頭に米軍偵察機が極秘に撮影した、日本国内の“未分類施設”の位置を示すものだった。その写真に記された一角が、まさにこの埋立地であった。
望月はポケットからICレコーダーを取り出し、吹きつける潮風に背を向けて小声で語りかけた。
「……第七分科会の記録が残されているなら、この地下以外にはあり得ん。神原、お前は最後の最後で、まだ足跡を残していたんだな」
その足音に気づいたのは、彼が背後で砂利を踏む音を聞いたときだった。
「誰だ」
望月が振り向くと、そこに立っていたのは、黒のウィンドブレーカーを着た若い女だった。目元はマスクに覆われていたが、長く伸びた黒髪とその眼差しに、彼は既視感を覚えた。
「……君は」
「奈々です。堂本奈々」
望月の目に、微かな驚愕が浮かぶ。
「君のお母さんには……昔、救われた。彼女が厚労省で“内部告発”をしようとしたとき、私は止めることができなかった。だから君に会わせる顔はなかった」
奈々は首を横に振った。
「もうそんなこと、どうでもいいです。ただ……今、私は“何か”を終わらせるためにここに来ました」
望月は数秒、沈黙した。そして手にしていた写真を差し出した。
「地下にまだ、何かがある」
奈々の視線が写真に落ちた。
「“L-17 地下保管区画”?」
「神原は最後まで、ここを守ろうとした。何が眠っているのか、私も正確には知らないが、“曇天計画”の中核を成す記録がこの場所にあると聞いている」
奈々は、レコーダーを望月から借り取ると、スイッチを押した。
そこには、神原秋人が死亡する数日前に残したと思われる音声が記録されていた。
≪……私はもう逃げられない。かつて私たちは国家の“希望”だと思って始めた仕事が、いつの間にか“監視”にすり替わった。正義はどこかで形骸化し、私たちは手段のために目的を忘れた≫
奈々の手が、震えた。
「これを、放送してもいいんですか」
望月はうなずいた。
「ただし、命を捨てる覚悟がいる」
一方、報道局の編集室では、外山誠が最後の素材をまとめていた。磯部慎一が画面を見つめる中、全国ニュースの編集責任者が立ちはだかった。
「……外山、これを放送すれば、君の記者生命は終わるぞ」
外山は苦笑した。
「それでも、誰かがやらなきゃ意味がない。真実を放送できない報道なんて、ただのマネキンだ」
編集責任者はため息をつき、最終承認のボタンを押した。
“特別報道枠にて、午後十一時に放送”
その決定がなされると同時に、報道局には一本の電話が入った。
「君たちの放送予定内容について、国家安全保障局が懸念を示している」
外山は電話の主に向かって言い放った。
「懸念じゃない。“恐怖”してるんだろ?」
午後十一時。放送が始まった。
「地下鉄サリン事件――その背後にあった、ある国家機関の“封印された計画”について、私たちは新たな証拠を入手しました」
ナレーションとともに、1995年当時の地下鉄駅構内の映像、伊達洋介の供述、堂本澄子の記録映像が次々と流れ、そして神原秋人の遺言が再生された。
テレビの前で多くの視聴者が息を呑んだ。
だがその映像が半ばを過ぎた頃、突如として画面がブラックアウトし、緊急地震速報のテロップが流された――しかし、揺れは来なかった。
画面が回復した時には、元のバラエティ番組に差し替えられていた。
磯部が叫ぶ。
「回線が遮断された……!」
外山はすぐに端末を開き、SNSに動画の一部をアップロードした。
「テレビがダメなら、ネットで行く。俺たちはもう止まれない」
その頃、堂本奈々は望月とともに、問題の地下区画への入り口にたどり着いていた。
古びたマンホールを開け、急な梯子を降りると、そこには鉄製の扉があった。パスワード認証などはなかった。ただ“物理的な鍵”が必要だった。
奈々は、母の遺品の中にあった小さな鍵を差し込んだ。
カチリ、と音がして、扉が開いた。
内部には、埃にまみれた棚と、無数の書類が保管されていた。薬品成分の表、実験報告書、そして“対象者リスト”。
「これが……すべての“源泉”か」
奈々はその一枚一枚をカメラで記録しながら、涙を流していた。
「お母さん……あなたが残してくれた道、ちゃんとたどるよ」
その声は、冷たいコンクリートに吸い込まれるように消えていった。
夜が明ける頃、ネットでは“L計画”に関する真偽不明の情報が拡散していた。
政府は即座に“捏造である”との声明を出すが、国内外のジャーナリストたちは動き始めていた。
“日本で再び、国家と報道の衝突が始まろうとしている”
第四十章 影の記録
夜の霞がまだ東京湾に残る未明。堂本奈々と望月良治が地下の封印区画で記録を回収してから、すでに六時間が経過していた。
奈々のリュックサックには、撮影済みの写真データと、神原秋人直筆とされる覚書、そして“L-17”と記された黒いファイルが入っていた。中には、1990年代初頭から密かに国家と宗教団体、そして一部の科学技術研究所が共有していた薬剤研究と心理実験の詳細が記されていた。
望月は、国会図書館旧館の裏手にある、かつての内務省官僚の私邸跡地にある文書庫に案内した。
「ここなら、今も電波は通じない。紙でしか記録を残さなかった理由が、やっと分かってきた」
奈々は無言でファイルを広げた。手袋を嵌めた指先が、静かにページをめくる。
《1993年10月15日
被験者第14群、三田線巣鴨駅構内にて観察実施。
合成VX神経剤の吸引量は基準以下。
心拍変動、言語反応、攻撃性上昇等、既知症状と一致。
文部省関係者の視察あり。
記録映像は第3機材班に移管》
「巣鴨……? 事件が起きる二年前……」
奈々が呟いた。
望月は言う。
「つまり、あの事件は“初めて”ではなかった。事前に同様の実験が地下鉄で試行されていた可能性が高い」
「でも、なぜそれが隠蔽されたんです?」
望月の顔には、いつになくはっきりとした憤りが浮かんだ。
「それを明らかにすると、“当時の官僚構造”がすべて瓦解するからだ。つまり、厚生省・警察庁・通産省が連携して実験を黙認していた。宗教団体が“暴走した”のではない。“暴走するように仕向けた”形跡すらある」
奈々の目が細められた。
「加害者が単独でなく、“誘導された”?」
「それが証明できれば、日本の戦後は終わる」
そのころ、都内某所の特別高層ビルでは、国家安全保障局の非常招集会議が開かれていた。
資料室長の神部啓介は、会議室のプロジェクターにネット上で拡散されている映像を投影した。
画面には、神原秋人の遺言音声とともに、L-17区画の写真が映し出されていた。
「これが本物であれば、我々は存在を否定するしかない。だが、情報の出所は掴めていない」
「外山誠は?」
「所在不明。おそらく記者クラブを出て、都内の複数箇所に分散して資料を渡している」
「削除しろ。ネットのログも全て。三日前のシステムバックアップまで遡って処理をかけろ」
神部は深く頷いた。
だが、彼の視線にはどこか焦燥が滲んでいた。
一方、逃走中の外山誠は、渋谷の古いジャズバーの奥にある貸倉庫に身を潜めていた。
かつて神原秋人と面識のあった老店主・水谷が彼を匿っていた。
「こんなことは30年ぶりだな。お前さんも命を懸ける覚悟か?」
外山は黙ってコーヒーを啜り、USBメモリを差し出した。
「これは“拡散用”。できるだけ多くの、海外メディアに渡してくれ」
水谷は受け取ると、懐のポケットにしまった。
「秋人は言ってた。“国家は時に、個人の記憶にすら嘘を混ぜる”ってな」
夜。再び東京湾。
奈々と望月は、回収した資料の一部を海外の調査報道チームと共有するため、港区の外国通信社支部を訪れた。
そこでは、すでに複数の記者がスタンバイしており、英語、フランス語、中国語、アラビア語など、さまざまな言語での取材が始まっていた。
望月はふと、窓の外に見える闇に目を向けた。
「戦後の記憶を、もう一度“洗い直す”時代が来たのかもしれん」
奈々が小さく微笑んだ。
「その最初の一滴が、母の残した記録だと思いたい」
その頃、官邸の地下施設では、首相補佐官が一本の報告書を受け取っていた。
《L-17 関連文書、複数拡散確認。完全遮断不可能。》
補佐官は電話を取り、冷静に命じた。
「プロジェクト“白磁”を起動。世論対策班、30時間以内に“無関心化”完了せよ」
受話器の向こうで「了解」と短く返された。
だが、その翌朝。
スペインの公共放送局が独自に入手した神原秋人の遺言映像を放送した。
その内容は瞬く間にヨーロッパ中に拡散し、国際社会が日本政府に公式な回答を求める動きを見せ始めた。
それでも、日本国内ではメディアが沈黙を続けた。
まるで“何もなかった”かのように――
その夜、奈々は夢の中で、亡き母・澄子の声を聞いた。
《奈々……あなたは、もうここまで来たのね。でも、戦いはこれから。迷わないで。》
奈々は静かに目を覚ました。望月が廊下で煙草をくゆらせていた。
「母に、背中を押された気がします」
望月は笑った。
「なら、あとは一緒に“踏み込む”だけだ」
(第四十一章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
コメント