第三十五章 静かなる霧
雨は、深夜の東京にしっとりと降っていた。
それは、あらゆる輪郭を滲ませ、真実と虚構の境界線を曖昧にするような降り方だった。人々の息づかいも車のエンジン音も、アスファルトに吸い込まれ、街は鈍い心音だけを響かせていた。
その中で、一台の白いライトバンが、四谷三丁目の裏通りにひっそりと停車した。運転席には磯部、助手席に外山、後部座席には奈々が乗っていた。
車のエンジンは切られている。3人とも、身を固くしてその時を待っていた。
「午前二時を回った。警備交代のタイミングだ。いくぞ」外山が静かに言った。
奈々はリュックをしっかりと抱え直し、黙って頷いた。中にはノートパソコンと各種録音機材、そして記録用のUSBメモリが入っている。どれも、後戻りの利かない行動の証拠となるものだった。
外山はビルの裏手に通じる非常階段へと向かった。入口の鉄扉はすでに事前の調査で、旧式の南京錠であることが分かっていた。外山がワイヤーカッターであっさりと破壊する。
「廃墟のくせに、誰かが定期的に閉じてる。つまり使っているやつがいる」
無言のまま、3人は階段を下りていった。埃とカビの臭いが鼻を刺す。壁は剥がれ、コンクリートがむき出しのままだった。
地下2階。ここが目指す場所——「倉庫E」があるとされるフロアだ。
「……ここか」磯部が呟いた。
錆びた鉄のドアに「E棟管理室」とかすれた赤い字が書かれていた。扉の隙間から、かすかな空気の流れがある。まだ“生きている”構造である証だ。
だが次の瞬間、背後で何かが軋んだ。
3人は一斉に振り返った。
廊下の先に、人影があった。
スーツ姿の男が2人、無言でこちらを見つめていた。そのうちのひとりが、無言のまま手を腰に伸ばす。
「伏せろ!!」外山が叫んだ。
乾いた破裂音。弾丸が鉄扉に跳ね返り、火花を散らす。磯部は奈々を庇いながら横に飛び、外山はポケットから閃光弾を取り出して床に投げた。
眩い白光と爆音。ふたりのスーツの男たちは一瞬ひるむ。
その隙に、外山が突進。格闘が始まる。
磯部は奈々を連れて「E棟管理室」に飛び込んだ。
部屋の中は驚くほど整然としていた。
埃はあれど、書架の配置、ファイルの分類、机上の事務用品は妙に新しかった。つまり、この場所は単なる廃墟ではなく、**誰かにとっての“現役の保管庫”**だったのだ。
奈々が慌ててファイルを開き、手当たり次第に資料を漁りはじめる。
「……あった。“コード:竜胆”」
そこには、昭和62年付で作成された極秘研究計画書が綴じられていた。表紙には「内閣技術庁・社会構造適応研究班」とあり、巻頭に太字でこう記されていた。
本計画は、都市災害時における人口動態の統制と情報遮断機構の有効性を測定するため、複数の想定事案を用いて実施する。
想定事案:A-04(ガス発生装置による都市交通網への影響観察)
奈々の指先が震える。
「つまり……これはテロではなく、シミュレーションの一環として“観察”された可能性がある……?」
「そうだ」と、背後から息を切らした声が応えた。外山が血のにじんだシャツ姿で戻ってきた。
「撃たれたの?」
「かすっただけだ。磯部が一人を抑えてるが……時間がない。奴らはもっと来る」
外山はファイルの中から、もう一枚の紙を引き抜いた。
それは、昭和天皇崩御の前後に撮られた官僚会議の写真だった。そこに「第七分科会」と手書きのメモが添えられていた。
「これだ……すべての始まりはこの“第七分科会”だ。厚生省と警察庁、そして旧防衛庁が共同で設置した、実験統制チーム……」
「この写真に写ってるの、私の父……!」
奈々が声を震わせる。
「そして隣にいるのが……大河内仁。今の国家安全委員会の議長だ」
外山と奈々は顔を見合わせた。
「真相に触れた今、おそらく私たちはもう“捜査対象”ではない。“排除対象”になった」外山が言う。
「それでも、出すしかない」奈々が応える。
「ここで止まれば、父の死も、あの朝の地獄も、ただの『不可抗力』に塗り潰されてしまう」
午前4時11分。ガレージに戻った3人は、記録の複製を開始した。
磯部は血まみれのシャツを脱ぎ、苦笑した。
「いやあ、まさか報道人生最後の特ダネが国家機密とはな」
奈々はキーボードを叩きながら微笑んだ。
「でもこれで……螺旋の先が、見えてきた気がします」
外山は静かに頷いた。
「まだ終わってはいない。だが、もう逃げる理由はなくなったな」
夜明けが、静かに近づいていた。
霧雨は止み、ビル群の向こうに、ぼんやりとした光が差し込み始めていた。
第三十六章 燃える転轍機
四谷の夜が明けきる前、東京湾沿岸の物流倉庫地帯に、一台の軽トラックがゆっくりと滑り込んだ。荷台にはダンボールが積まれているが、その中身は衣料品でも食品でもない。ラベルも貼られておらず、配送伝票にはただ、墨で大きく「第七処理班」とだけ記されていた。
運転席には、神原秋人がいた。国家安全委員会・特別管理部門、かつて防衛庁第七分科会の事務局補佐。彼は、後部座席の薄闇から視線を上げ、無線のスイッチをひねった。
「コードN13、最終段階に入った。標的、すでに記録媒体を外部転送中。予備回線を遮断しろ」
乾いた声が無線から返る。「了解。転送回線、19分後に遮断予定。現場AとBは接近中」
神原は目を閉じた。彼にとって“第七処理班”とは過去の亡霊などではなかった。それは現在進行形の国家装置であり、自らがその歯車の一部であることを知っていた。
「君たちは、線路を逆走している」彼は独りごちた。「列車が来れば……ひき殺されるだけだ」
そのころ、渋谷の外山の事務所では、奈々が最後のファイル転送を急いでいた。
USBメモリはすでに3本。記録媒体は分散され、いずれもネットカフェ、コインロッカー、そして外山が用意したクラウドストレージへアップロード中だった。
「あと13分……」
「残り2分で回線が切れる。急げ」外山が警告する。
磯部は玄関に立ち、カーテンの隙間から街路の様子を見張っていた。
「変だ……この時間にタクシーが4台、同時にUターン?」
彼は、職業記者としての嗅覚を疑わなかった。数秒後、確信に変わった。
「来るぞ。こっちに!」
外山は迷わずモニターの電源を落とし、奈々を抱えて机の下に引きずり込んだ。
その瞬間、事務所のシャッターが外から破られた。無音の閃光とともに、黒い制服を纏った男たちが雪崩れ込んでくる。
無言のまま、彼らは手にした催涙弾をばら撒き、情報機器にパテを投げつけ、キーボードを砕き、コードを切断した。まるで軍事作戦のような動きだった。
「奈々、逃げろ!非常口へ!」外山が叫ぶ。
しかし出口の先にも男たちはいた。無慈悲な包囲網が、静かに、だが確実に彼女を囲んでいく。
その時だった。
事務所の奥から、突然爆音が響いた。電源ユニットが破裂し、煙が立ち込める。
「おい、なにが……」
混乱する突入班の隙をついて、外山は奈々を押し出した。
「走れ!!警視庁に行け!!お前の名前を使って、メディアが動く!」
「でも外山さん……!」
「構うな!!俺はもう……過去を背負ってるんだ!」
奈々は、泣きながら走った。
それから1時間後、渋谷署の地下の取調室に、ひとりの刑事がやってきた。彼の名は神山——公安三課に所属する中堅刑事であり、情報提供者でもあった。
「……どうやら、ここも手が回ってるな」
彼は取調室に置かれた資料を睨みつけながら、小声で呟いた。そこには「三宅奈々 身柄確保予定」「外山司 対象コードA-22」と記されていた。
「A-22……“合法的抹消対象”か。やりやがったな」
神山はその書類をスキャナーで複写し、自身の非公認デバイスに送信した。そしてゆっくりと口元を歪めた。
「さて……大詰めだな、“七分科会”の亡霊ども」
同日午後、奈々は新宿の地下道にいた。
事務所で奪い取った1本のUSBメモリを握りしめながら、彼女は地上に出るエスカレーターの途中で立ち止まった。
人々の顔が見えた。通勤の男、スマホを見ながら歩く若者、ベビーカーを押す母親。
「この人たちは……何も知らない」
あの朝、地下鉄でサリンに倒れた母の顔が、脳裏に浮かぶ。
その死は「テロ」とされた。だが、真実は——国家が“観察”していた
それは決して風化してはならない記憶だった。
奈々は意を決して歩き出した。向かう先は、国会記者クラブだった。
記者証も所属もない。だが、真実があれば人は動くと、外山が言っていた。
彼女はひとつの賭けに出たのだった。
午後6時、ニュースサイト「オピニオン・ジャパン」に異常なトラフィックが集中した。
「政府内“第七分科会”極秘資料流出」
「地下鉄事件に国家関与か」
「元厚生官僚の娘が会見」
SNSは騒然とした。
それと同時に、神原秋人の乗る軽トラックは、千葉の海岸沿いで停車していた。彼は無線を見つめながら、静かに目を閉じた。
「……発動条件を超えた。コードF-0を要請する」
「確認:対象、世論拡散段階に移行」
「了解。だが……これはもう、止まらない」
神原は、ゆっくりと拳銃を取り出した。
東京の夜が更けていく。街は何事もなかったように、光を灯し、人々は歩き続けていた。
だが、確実に何かが変わりはじめていた。
それは、ひとつの“螺旋”が断ち切られる予感だった。
(第三十七章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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