第三十三章 重奏する沈黙
かすかな雨が降っていた。
梅雨入り前のどんよりとした空の下、梶村奈々は新宿御苑の北側、外れの公園にいた。長袖のジャケットにフードをかぶり、ベンチに座っている。手元のトートバッグには、岩倉貞明が遺した手帳の複写と、彼女自身が書きかけている次の原稿が入っていた。
目の前を、子どもを連れた母親が何組も通り過ぎてゆく。平凡な日常の風景――それが、彼女の心を逆撫でした。この日常こそが、人為的に“設計”された虚構なのではないか? そんな疑念が、ここ数日で奈々の内に根を張りつつあった。
「思考が先に腐るわね……」
自嘲気味に呟きながら、バッグの中の手帳に手を伸ばしかけた、そのとき。
「……その手帳を、まだ持っているのか?」
低い男の声が背後から響いた。すぐに奈々は立ち上がり、振り返る。そこにいたのは、長身の黒いコート姿――外山信義だった。
「あなた、公安の査問を受けたはずじゃ……」
「無期謹慎だよ。だが“監視対象”が外れることはない。君も同じだ」
彼の視線は冷たいが、そこにはわずかな同情が混じっていた。
「岩倉の手帳には、これまで我々が追ってきた“仮説”以上の事実が詰まっていた。対象者の選定過程、実験の段階分類、そして何より“死者のリスト”……これを公開すれば、遺族の怒りは国家へと向かう。君は、その業火を招く覚悟ができているのか?」
奈々は無言で頷いた。
「私は……父を殺された。“事故”とされたけれど、本当は実験の“バッファ”として投与対象にされた。記録のHF-04、それが父だった。あのサリン事件で直接死なずとも、あの数日後に急性中毒症状で倒れた。救えたはずの命だった」
外山は一瞬だけ、彼女から目をそらした。
「梶村、君の動きにもう“気づいている者”がいる」
「誰?」
「……政権中枢だ。名指しは避けるが、内閣情報調査室の“非公式チーム”が君の位置をトレースし始めている。追い詰められた“国家”ほど、危険なものはない」
「もう逃げない。公開のタイミングは来週の火曜、インディペンデント系のWebメディア『On-Log』と提携して、全PDFを拡散する予定。コードネームを使い、複数アカウントとサーバを通して、たとえ私が消えても拡散は止まらない」
「そこまで準備していたのか……」
「ええ。最初から、“私一人が生き残る設計”にはしていない。外山さん、あなたには一つ頼みがある。もし私が連れ去られたら、“この”アカウントにアクセスして。自動でバックアップが動くから」
そう言って、奈々は名刺サイズの紙片を外山に手渡した。そこには長大な文字列が手書きされている。暗号化されたクラウドアドレスだ。
「わかった。だが、できる限り君を守る」
三日後。午前5時47分。
豊島区・巣鴨。細い住宅街に停まった黒塗りのワンボックスカーの中で、スーツ姿の男女が短い会話を交わしていた。
「ターゲットは確認済み。梶村奈々、30代女性、ジャーナリスト。対象者分類コード:KJ-17」
「予定通り、手順フェーズ3を発動。接触して拘束。情報削除、記憶改変処理はその後」
その会話を、建物の裏に身を潜めていた外山信義が無線機越しに傍受していた。
「……やはり動いたか。記憶改変処理。まだ続けていたんだな、こんな手法を」
外山は即座に、部下である旧公安仲間に連絡を入れ、奈々の避難計画“コード・ミネルヴァ”を発動させた。
午後1時12分。渋谷・道玄坂の古いホテル。奈々は変装のまま、外山の案内で中に入り、薄暗い一室に身を隠した。壁際には、Wi-Fiルーター、数台のノートPC、仮想通貨用のウォレット端末。まるで“地下作戦室”のような空間だった。
「今夜0時、全ファイルを一斉公開します。“嵐の中で鐘を鳴らす”瞬間を、待つだけ」
外山は、黙って頷いた。
しかし奈々の内心は穏やかではなかった。
誰かが来る。
そんな“予感”のようなものが、静かに脳裏を走っていた。
午後11時53分。
パソコン画面には、「公開準備完了」の文字が点滅していた。アップロード先は13カ所、バックアップは6カ所。接続先の一つには、世界的な告発専門サイトの名前もあった。
奈々は、外山に目を向けた。
「……準備は万全。でも心が騒いでる」
「当然だ。だが君の行動は、いずれ“歴史の重奏”の中で意味を持つ」
「重奏?」
「真実は、いつも一人で語られるわけじゃない。時間が、証人になる。そして、それを重ねる人間がいて初めて、“真相”になる」
外山の言葉を胸に刻みながら、奈々はゆっくりとマウスを動かし、画面上の「公開」ボタンにカーソルを合わせた。
時刻は、午後11時59分58秒――
そして、午前0時00分00秒。
クリック――
ファイル群が世界へと放たれた。
第三十四章 封鎖された回路
公開から数時間後。
午前3時14分。
都心のネットカフェでは、眠らずにスクリーンへかじりつく若者たちのざわめきが広がっていた。いわゆる“真相追跡者”たち。闇に沈んでいた国家機関の資料が、スクープ形式で連投され、複数メディアが次々と転載。**「94年以降の実験的神経ガス投与」**の文言が、SNSを席巻した。
一方、霞が関。
内閣情報調査室地下フロアでは、5人の男たちが長方形のテーブルを囲んでいた。全員がスーツに黒縁眼鏡。机上には、緊急対応計画書が並び、モニターにはハッキング検知報告がリアルタイムで表示されていた。
「予測より早い流出だった」
「情報源は梶村奈々、およびその支援者。元公安の外山信義が介在している可能性大」
「止められるか?」
「サーバは国外、しかもブロックチェーン分散形式。消すのは不可能です」
部屋に静かな沈黙が落ちた。
誰も、責任を口にしない。
「……では“回収”を進めろ。梶村、および外山。ふたりの口を封じることが次善だ」
午前5時40分。目黒区・上大崎。
薄明るい朝に、外山信義はアパートの裏口から姿を現した。前夜のファイル拡散以降、彼はすでに複数の連絡手段を封鎖していた。梶村をホテルに残し、移動用の車両を確保するべく、一時的に外へ出た形だった。
だが、曲がり角の向こうに、違和感を伴う車が停まっていた。真新しい黒のクラウン。運転手は動かない。明らかに、待ち伏せ。
外山は即座に角を引き返し、後方路地へ抜けた。耳元のイヤーピースから、もう一人の“見張り役”である旧知の記者・磯部からの音声が届く。
「動き出した。ふたりは西口方面に配置されてる。現場のホテルは30分以内に特別部隊が突入する計画」
「了解……梶村の退避を急がせる」
ホテル。午前6時02分。
奈々はまだパソコンの前で座っていた。だが、スクリーンには異常が表示されていた。
「このアカウントは利用できません」
瞬間、背筋が凍りつく。
まさか、すでに“逆流”が起きているのか――?
そこへ、ノックが3回。低く、規則的。
「外山さん……?」声を出しても返事はない。
ドアを開ければ、その先には公安第五課の隊員たちがいた。
瞬時に奈々はドアを閉じ、奥の非常階段へ向かう。バッグの中には、最後の記録メモリが入っていた。
階段を駆け下り、踊り場でぶつかった人影が、彼女を咄嗟に引き寄せる。
「来い、こっちだ」――外山信義だった。
ふたりは階段を一気に駆け抜け、地下駐車場へ。そこには磯部が用意した車が待っていた。
午前7時21分。新宿区・大久保。
車は古びた雑居ビルのガレージに停まり、三人はそこへ潜った。そこは、磯部がかつて追い詰められた末に作った“最後の避難所”だった。
奈々はメモリを机に置き、息を整えた。
「……私たち、もう後戻りできない」
外山は静かに頷いた。
「後戻りの道が、もとより存在しなかったのさ」
磯部が、疲れた表情で口を開いた。
「だがこれで終わりじゃない。次の段階に進む」
「段階?」
「君が流したデータの中に、“コード:竜胆”と記された項目があった。未発表の分科会文書の鍵だ。“社会実験”の正体に最も近づく部分。あれを掘り起こす」
奈々は、次第に顔を引き締めた。
「場所はどこ?」
磯部は、机の引き出しから1枚の紙を出した。それは、昭和時代に作成された厚生省旧庁舎の地下構造図だった。
「ここに記録があるとされている。“倉庫E”。当時の局長が個人的に管理していた未提出資料が眠っている」
「……そんな昔の場所、今も使われてるの?」
「一部は、現内閣府の書庫と連結されて生きてる。だが公式には廃墟扱い。無許可で入れば不法侵入だ」
外山が口を開いた。
「よし、行こう。三日後、深夜。最少人数で侵入する。“国家の墓場”に、もう一度足を踏み入れるんだ」
その夜、奈々は眠れぬまま、かつての父のノートを開いていた。
そこには、父がかつて口にしていた言葉が走り書きされていた。
「真実は、いつも無音の中にある。音を立てれば、潰される。だが沈黙だけでは、届かない」
奈々はノートを閉じた。
この螺旋の中に、出口はあるのだろうか――。
(第三十五章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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