松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第二十七章・第二十八章

目次

第二十七章 断章の遺言

その朝、東京都港区の海辺にほど近い赤坂検察庁には、まだ梅雨入りを控えた初夏の湿気が淀んでいた。

梶村奈々は、ノートパソコンを膝に乗せたまま、応接室の硬いソファに身を沈めていた。彼女の視線の先には、無機質なスチール製のドア。その奥に、今西泰三がいた。

逮捕から三日。黙秘を貫きながらも、時折漏らす断片的な証言が、逆に警察側を混乱させていた。

「彼の語る“Phase3”や“認知の再配置”は、単なる妄想にすぎないと判断する専門家もいる。しかし、証拠が彼の言葉に一部一致してしまっている」

そう告げたのは、検察の中堅検事・外山信義だった。五十を過ぎた小柄な男で、無精髭と軽薄そうな笑みを常に浮かべていたが、決して侮れない論理の組み立てを持っていた。

「梶村さん、彼の過去について、あなたが把握している限り、私に“語って”もらえませんか?」

「彼は父親――間宮義一の研究を継いでいました。青木ヶ原で旧政府が行っていた“情報操作用薬剤”の試験。それが地下鉄サリン事件と直接関係しているという確証はありませんが……彼はそれを“媒介”と考えている節があります」

外山は頷いた後、急に口元を引き締めた。

「奇妙なことがいくつかあるんです。今西は逮捕される直前まで、国外に通話やデータを断続的に送信していた。暗号化され、復号不能のファイルばかりですが……その中に『Ministry C – 白鷺レポート』と題された文書があった」

「……“白鷺”?」

奈々の中で何かが引っかかった。小学校時代、彼女の父が夜に小声で話していた言葉を思い出す。「白鷺計画」と。機密であるかのように家中で誰も触れなかったその単語が、再び浮上したのだ。

外山は手元のタブレットを操作し、文書の冒頭部分を示した。

「本件実験は1989年より、防衛技術研究本部の協力を得て、東京都下において断続的に実施された。対象は精神刺激反応群――略してSSR群。薬物による認知変容を、報道構造と結びつけるモデルケースである。」

奈々は息を呑んだ。

「つまり、事件を“報道”によって植え付け、その報道を介して“薬剤”を作用させる?情報と化学を結合するということですか」

「それが事実ならば、地下鉄サリン事件は単なるテロではなく、“モデル実験”の集大成だった可能性がある」

外山は静かに言った。

「我々検察としては、“国家機関の関与”という言葉を簡単に口にはできません。しかし、今西が黙秘を続ける限り、それを否定する材料も出てこない」

奈々は立ち上がった。

「私に会わせてください。彼は、私になら話すかもしれません」


留置場の鉄格子越しに見る今西泰三は、以前よりやつれ、髪に白さが目立っていた。だがその眼だけは、鋭く、遠くを見ていた。

「奈々……来ると思っていたよ」

彼は口元に笑みを浮かべた。

「Phase3は、未完で終わった。だが、その“意味”を伝えることはまだできる」

「なぜ、あなたはそこまでして国家を告発しようとしたの?」

今西は目を閉じ、しばしの沈黙ののち、ゆっくり語り出した。

「私の父――義一は、信じていたんだ。情報が人間を救えると。だが、その“理想”は裏返った。政府はそれを兵器にした。“心”を戦場にするために」

奈々は言葉を失った。

「やがて父は自殺した。報告には“自宅での一酸化炭素中毒”と書かれていたが、私は知っていた。彼は殺されたんだ。“口封じ”として。そして、私はその事実を胸に刻んできた」

「あなたはその復讐のために……?」

「違う」

今西の声は低かった。

「私は、過去を“暴く”ことで、未来を正そうとした。だが、今や私の行動もまた、罪であると分かっている。人の不安を操る装置を、自ら使おうとした……私は、父と同じ轍を踏んだ」

沈黙。

奈々はそっと問いかけた。

「“白鷺レポート”に書かれた内容は、すべて事実なの?」

今西はわずかに頷いた。

「そして、それは今も続いている。“新たなPhase4”の準備が」

彼女の心が凍る。柳田の言葉が脳裏をかすめた。

――「国家は、一度動き出した計画を、途中でやめたりしない」

「Phase4は、どこで?」

今西は、黙った。

だが次の瞬間、彼の目が鋭く光った。

「君にだけ、残しておこう。最期の“遺言”として」

そう言って、彼は背後の壁に目をやった。

「“外苑前”だ」


その夜。梶村奈々は赤坂のアパートに戻ると、古びた紙の地図を机に広げた。外苑前駅、その周囲にはいくつかの政府関連施設や、NPO法人、出版社がひしめいていた。

彼女は指を地図に滑らせた。そして、ふと立ち止まる。

「NPO法人『都市安全管理フォーラム』……?」

設立は1997年。サリン事件の翌年。代表理事は、元防衛庁研究員・高村辰夫。今西が以前、手帳に記した名前だった。

奈々の中で、一筋の螺旋が確かに回転し始めていた。

螺旋はもう、止まらない。

第二十八章 外苑前の霧

東京メトロ・銀座線のホームには、午後六時の余熱が残っていた。夕刻のラッシュにはまだ早く、車両はまばらだった。

梶村奈々は、静かに駅構内を歩いていた。小型のICレコーダーとカメラ付きの眼鏡を装備し、黒いリュックには念入りに整備した地図と資料が収められている。

「都市安全管理フォーラム」――その名は曖昧で、警戒を感じさせない。しかし、調べを進めるうちに、不可解な点がいくつも浮上した。事務所の登記は外苑前の古びたビルにあるが、実態は謎に包まれていた。公式HPには防災、防犯、そして“メディアリテラシー”の普及活動とだけ記され、代表理事の高村辰夫は元防衛庁の情報分析官だった。

奈々は外苑前駅の2a出口を上がると、すぐそばの青山通りを南下した。並木の合間に立つ築40年ほどのビルが、その“フォーラム”の所在だった。

しかし、1階のインターホンにはプレートすらなかった。

「名ばかりの団体……それとも“隠されている”?」

不意に、背後から誰かが彼女を見ているような気配を感じた。奈々は振り返ったが、ただ学生風の若者と年配の婦人が通り過ぎていくだけだった。

彼女はもう一度、建物を見上げた。

3階の窓だけ、カーテンもブラインドも閉ざされていない。その奥に、人の影が一瞬よぎった。

奈々は決意し、階段を上った。


インターホンは反応しなかった。しかし、3階のフロアには扉が半開きになっていた。誰かが入った直後なのか、それとも……

中に足を踏み入れると、異様な静けさがあった。オフィスというよりは、廃墟のようだ。机は3つだけ。椅子も埃をかぶり、パソコンはすべてモニターが外されていた。

そして、壁の一角に“銀色のアルミボード”で覆われた一画がある。まるで放射線管理区域のような警戒感を醸し出していた。

奈々は近づき、携帯用のライトで照らす。すると、ボードの隙間から、薄い紙片がはらりと落ちた。

拾い上げると、そこには手書きでこう記されていた。

「Phase4は“可視化”に至る――影を光と見誤るなかれ」

そして、紙の裏には日付。「1994.12.21」

地下鉄サリン事件の、まさに3か月前だった。


その頃、永田町の警視庁情報部では、ある資料が極秘に閲覧されていた。外山信義検事は、非公式に警察情報部の職員からコピーされた報告書を手にしていた。

「“実験計画9409-SS(白鷺)”」

そこには、1994年に複数の“潜在的協力者”が東京都心で“心理変容実験”を受けていたと明記されていた。

「実験内容:視覚・聴覚への刺激と同時に、低濃度神経薬剤を空気中に放出、潜在的行動変容の傾向を観察」

協力機関:都市安全管理フォーラム

調整官:高村辰夫

監修責任:間宮義一(故人)

外山は呆然とした。

「これは……完全に、事件の“予行演習”じゃないか」

そして報告書の最後には、被験者群の一部として、ある新聞社の新人記者の名前が記されていた。

梶村奈々。


その夜、奈々は外苑前のアパートに戻るなり、パソコンを開いた。彼女は自分の医療記録を確認しようとしていた。大学時代、青山通り沿いの小さな診療所で処方された風邪薬の記録。何気ない通院。しかし、そのとき処方された薬剤のコードが「NFX-404」であることが、今西の資料に記されていた。

NFX-404――記憶の定着をゆるやかに変容させる試験用投薬。

まさか。自分が、“被験者”だった……?

ふと、彼女の目が画面の端にある別のフォルダにとまった。「父・信介の資料」とラベルされたその中に、長年開いていなかったPDFがある。

クリックすると、音声ファイルが立ち上がった。

≪……奈々。お前がこれを聴くころ、私はもういないかもしれない。だが、伝えなければならない。サリン事件は偶発ではない。国家が関与している。私はその証拠を集めていた。今西の父、間宮義一と共に≫

奈々は口を手で覆った。音声は続く。

≪私たちは“言葉”と“薬物”の相互作用に注目していた。人間は、事実を受け入れるとき、“言語”を通す。その言語認識を操作できれば、現実の見え方をも変えられる。これが“白鷺計画”の核心だ≫

最後の言葉は、録音ノイズの向こうから、まるで今西の声のようにも聞こえた。

≪それは、まだ“続いている”……≫


翌朝、梶村奈々はひとつの決意を固めていた。

この事実を、報道に乗せる――命がけでも。

彼女は旧知のテレビ局記者に連絡を取り、外苑前での取材映像と自らの証言を送信した。

その送信を終えた瞬間、部屋の外から、重い足音が近づいてきた。

「……誰?」

インターホンは鳴らない。

奈々は立ち上がり、そっとドアチェーンを確認した――その瞬間、扉が内側から激しく叩かれた。

「開けろ。警視庁だ」

奈々は震える手でドアを閉めたまま答えた。

「令状を見せてください」

「……黙秘か。では破るまでだ」

扉の蝶番が軋み、金属音が走る。

しかし、奈々は逃げない。

彼女の中で、曇天の螺旋はとうとう核心に触れていた。

(第二十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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