第二十三章 交錯する斑影
刑事・柳田は、錦糸町駅近くの喫茶店の窓際で、じっと雨に濡れるアスファルトを見つめていた。コーヒーには口をつけず、ただ右手の指先だけが微かに動いている。その指の動きは、長年の習慣である――追い詰められたときに出る癖だった。
「間宮智久、やはりこいつが鍵か……」
柳田の頭の中には、ここ数日の調査で浮かび上がってきた幾つかの事実が渦を巻いていた。1995年3月の事件当時、地下鉄霞ヶ関駅構内にいた不審人物の一人、そして、その後消息を絶った元信者・間宮智久。だが、公安の資料には、彼の本名も過去も、すべて曖昧な情報しか残されていなかった。
一方、同じく取材を続けていたフリージャーナリストの梶村奈々は、杉並の古書店で思わぬ発見をしていた。焼けたような匂いのする埃まみれの本棚の奥に、無造作に積まれた古文書の中から、ある信者が書いたとされる「黙示録的ノート」を見つけたのだ。
――魂は化学によって清められる。
――天の命は都市の血を通じて届く。
その手記には、宗教的妄想と化学物質、そして交通機関への執着が交錯していた。だが奈々の目に留まったのは、文章の内容ではなく、その余白に書かれた名だった。
「…“T.Mamiya”…?」
直感が鋭く反応した。梶村は店主に頼んでそのノートを譲ってもらうと、すぐに喫茶店へ柳田を呼び出した。
「この名前、あなたの探している人物と関係あるんじゃないかと」
柳田はその名を見て、一瞬、呼吸が止まるような感覚を覚えた。指先がまた動き出す。
「おそらく間違いない。だが……このノートが正真正銘、当時の彼のものだとすれば――」
言葉を切った柳田の目が、雨の向こうを見据えた。平成の空気を曇らせたあの事件は、依然として何かを覆い隠している。もしもこのノートが真実を含むものなら、公安が隠蔽してきた“別の動機”が浮かび上がる可能性がある。
「彼らの動機は単なる“終末思想”ではない……国家を突き崩す、計算された知性があったはずです」
梶村も無言で頷いた。報道の世界に身を置く者として、これまで「陰謀論」として退けられてきた領域に足を踏み入れるのは覚悟が要った。だが、彼女には確信があった。これは真実の断片であると。
その頃、江東区の廃墟ビルの地下室。
壁には変色した新聞が貼られ、化学薬品のような匂いが立ちこめている。その一角に、かつて“信徒”と呼ばれた者たちの集会が、細々と続いていた。
中央に座る男は、白髪交じりの髪を無造作に結い、ひび割れたレンズ越しに何かを凝視していた。彼こそが、間宮智久。いや、今や彼は別の名を名乗っていた。「今西泰三」として。
「計画は進んでいる。あの日の“浄化”は終わっていない。都市の血脈を再び正すときが来る」
信者たちの表情には、以前のような狂信的熱狂はない。むしろ、ひどく疲弊し、怯えているようだった。だが、今西は構わず話を続けた。
「次は、情報という血流を操作する。我々の正義は、ネットと電波のなかに滲み出すのだ」
彼は十数年の潜伏生活の中で、化学ではなく「通信」という新たな道具に目をつけていた。テロは物理的な破壊だけではない。虚偽と真実の境界を溶かし、群衆を混乱させることが、令和の“サリン”になる――彼はそう信じていた。
その夜。柳田は、都庁の裏手のバーで公安出身の元情報官と会っていた。
「……彼の潜伏先について、何か聞いてませんか」
「間宮? 知っているよ。だが、君が近づけば、潰される。公安の中でも、彼に関わる情報はタブーなんだ」
「それは……なぜです」
男はグラスの縁を指でなぞりながら呟いた。
「彼は、利用されていた。国家によってね。だから、正体を暴かれると困る連中がいる。今もだ」
柳田は背筋に冷たいものが走るのを感じた。それは、あの日のサリンよりも、ゆっくりと、確実に肺を蝕んでいく感覚だった。
「つまり、“事件の裏”には、政府の何かが?」
「想像に任せる。だが一つ言えるのは――“地下鉄”を動かしたのは毒ガスだけではない。情報と計画、そして何より、組織的な“協力”だよ」
その言葉は柳田の中に重く沈んだ。
事件の本当の輪郭は、いまだ霧の中だった。だが、その霧の向こうに、明らかに何かが見えかけていた。
第二十四章 影の遺構
小石川の斜面にひっそりと佇む古い寺。その裏手、手入れの行き届かない墓地には、雨に濡れた雑草が広がっていた。山門をくぐってきた梶村奈々は、手にしたファイルを胸に抱え、足元を慎重に踏みしめながら一基の無縁仏に近づいていった。
その墓碑には、風雨に削られた「間宮」の文字が、辛うじて判別できた。
「やはり、この姓は……偶然じゃない」
梶村は前日に手に入れた住民票の除票と、古い戸籍謄本を思い出していた。間宮智久という名の存在は、公安の資料では1995年の時点で“死亡”とされていた。だが、この無縁墓に眠っているのは、彼の“父”とされる人物――間宮義一。死亡日は1987年。そしてその死亡届を出した人物は、「今西泰三」だった。
つまり、あの“今西”は、間宮姓を捨てる前に一度、家族という輪郭を自らの手で消していたのだ。
「自分の過去を、戸籍からも歴史からも切り離した……」
奈々の背筋に冷たいものが走った。ジャーナリズムの世界に身を置いて十数年、数々の裏社会を見てきた彼女だったが、このような“静かな死”の処理を知るのは初めてだった。
音もなく墓碑の横で風がざわついた。雨上がりの空に、雲が低く垂れ込めていた。
そのころ、捜査一課の柳田は、霞が関の地下アーカイブにいた。公安外事課から密かに提供された“非公開ファイル”の一部を、ある伝手を使って閲覧できる機会を得たのである。
室内は低温で、分厚い書類が無機質に並ぶ。閲覧許可されたのは、わずか三冊の黒表紙ファイル。柳田はそのうちの一冊を開いた。
【件名:間宮智久/対象区分:B-黒鷺】
そこには、昭和末期から平成初期にかけて、ある“特殊研究班”との接触記録が記されていた。
1989年8月:間宮、文京区の某研究機関で起爆物処理に関する非公式セミナーに参加
1990年3月:某新興宗教団体に接近。信者名「S.T」により引き合わせ
1993年:化学薬品に関する非正規製造実験を開始。公安による監視指示発出(分類:無許可技術転用)
柳田は眉をしかめた。公安は、明らかに“事件の種”を早期から把握していた。
「なぜ、止めなかった……?」
だが、次のページに目を通した瞬間、柳田はその問いに対する“もう一つの可能性”を突きつけられた。
1994年:国家情報庁、暗号通信回線実験において間宮に作業協力依頼。対価不明。
備考:「本件はA9文書により一時保留、公安内部の協議継続中」
柳田は思わず椅子から腰を浮かせた。「A9文書」――それは、国家レベルで機密指定された案件に与えられる特別記号だ。一般警察官はもちろん、上級官僚ですら閲覧を禁じられることもあるという。
間宮智久は、宗教と化学の“境界”だけでなく、国家と思想の“接合部”に立っていた。
その夜、梶村奈々は中野のアパートで、その情報を柳田から受け取った。彼女の表情は驚きよりも、むしろ納得に近かった。
「だから、事件の直後に彼の痕跡が急に消えたのね……消されたんじゃなく、“隠された”のよ」
奈々は古書店で手に入れたノートの書体と、柳田が撮影した公安文書の筆跡に、明らかな一致を見出していた。丸みを帯びた「う」の書き方、やや縦長に伸びる「し」、いずれも、間宮=今西の筆跡だった。
「やっぱり彼は、生きていて、なおかつ“再始動”しようとしてる。通信と情報の中で」
柳田はしばらく黙っていたが、ぽつりと口を開いた。
「なあ、梶村。俺たち、本当にこれを掘り返していいのか?」
「え?」
「もしもこの事件が、“単なるカルトの暴走”なんかじゃなくて……政府が、一部で加担していたとしたら」
柳田の目は沈痛だった。職業倫理を超えた、“生身の危機”を直感しているようだった。
奈々は一拍置き、静かに応えた。
「それでも、知ってしまった。もう引き返せないわ」
二人の間に言葉が消えた。窓の外、街の灯がにじみ、東京の空に新たな夜が降りていた。
一方その頃、新宿南口の大型ビル群の裏手、閉鎖された旧通信所跡地の地下で、今西泰三は静かに端末を操作していた。
“Phase-2 起動準備完了”
画面に表示されたその言葉を見て、彼は満足そうに頷いた。
「次の“浄化”は、目に見えない毒だ……人間の知覚そのものに、介入する」
その声は、もはやかつての間宮智久ではなかった。宗教も国家も超えて、彼は一人の“原理”になろうとしていた。
(第二十五章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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