松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第七章・第八章

目次

第七章 継がれし記憶

 午後の光が差し込む東京大学本郷キャンパス、赤門近くの古い研究棟の一室で、青年は記事を何度も読み返していた。

 彼の名は志水拓海(しみず・たくみ)、理学部化学科に在籍する四年生だった。

 机の上には、朝都新聞の一面と、父・志水幸雄の遺影。小さな遺影の中で、父は古びた作業服を着て笑っていた。

 志水幸雄は、地下鉄日比谷線・神谷町駅でサリンを吸い込んだ被害者の一人であり、当初は“通勤中の偶発的犠牲者”と記録されていたが、遺族である拓海には、ある種の違和感が残されていた。

 ──父が、その日だけ定時に家を出た理由は、いまだに誰も説明してくれない。

 公安の事情聴取も、警察の報告書も、曖昧で整いすぎていた。

 だが、白井記者の記事を読んだ瞬間、何かが胸の奥で燃え上がった。

 「国家が、“制御された混乱”を許容していた……?」

 拓海は、資料室でこつこつと調べてきた情報をノートにまとめていた。教団の化学系人材の流出先、公安との接触記録、そして九〇年代後半に急増した“研究補助金”の流れ。その中には、ある“国家安全研究機構”という名の聞き慣れない法人の名があった。

 彼はメモを取る手を止め、研究室の主任教授の部屋へと足を向けた。

 その人物──三島義孝教授は、かつて防衛庁の科学技術顧問を務めた経歴を持ち、政界にも顔が利く男だった。

 「教授、少しだけお時間をいただけませんか」

 三島は老眼鏡越しに拓海を見て、ゆっくりと頷いた。

 「君、志水くんだったね。父上の件は、遺憾だった」

 拓海は新聞記事を差し出しながら問いかけた。

 「教授は、“国家安全研究機構”という法人をご存じですか? 九四年から九六年にかけて、かなりの補助金が流れていたようです。教団との関連があったのではないかと──」

 三島の目の奥に、かすかな緊張が走った。

 「……君は、何を目的にその名前を調べている?」

 「真実を知りたいんです。父は、何かを知っていたのではないか。そう思えてならない」

 三島は椅子に深く腰掛けた。しばし沈黙の後、低く、こう告げた。

 「その名前を公にするのは、危険だ。私から言えるのはそこまでだ。だが、君が本当に知りたいのなら──この名を辿るといい」

 教授は紙に一つの名を書いた。

 > 槙島衛(まきしま・まもる)

 「彼は、かつて内閣調査室にいた男だ。“影の室長”と呼ばれていた。今は政界の相談役として、表にはほとんど出てこない。だが、国家安全研究機構の設立時、その運営資金の多くが彼の指示で決裁されたと聞いている」

 一方その頃、白井加奈子は再び動き始めていた。

 釈放後、記者証は一時的に保留処分となっていたが、彼女は“市民ジャーナル”という独立系サイトに名義を貸し、匿名で記事の配信を始めていた。

 記事は連載形式で、「五反田実験施設の正体」「公安による教団誘導の実態」などをテーマに扱い、SNSで静かに拡散を始めていた。

 ある日、そのコメント欄に一つの奇妙な投稿が寄せられた。

 > 「君の記事には真実がある。しかし、その“先”を知るには、“影の部屋”に踏み込まねばならない」

 > 「港区・赤坂八丁目。旧住宅公社のビル。エレベーターは止まっていない。だが、地下へ続く“階段”はまだある」

 白井は、その文を読みながら、胸の内に“佐伯の声”がよみがえっていた。

 ──真実を知った者に、後戻りはない。

 同日夜、志水拓海はインターネット上で“市民ジャーナル”の記事に辿り着き、白井の記事とそのコメントを読み込んでいた。

 そのとき、スマートフォンの着信が鳴った。

 「……君が志水拓海くんか?」

 低く、ざらついた男の声だった。

 「君の動きは、見られている。真実を求めることは否定しないが、それは危うい橋を渡るということだ。君の父の死は、“偶然”ではなかった。だが、“仕組まれた必然”だったとも限らない」

 「あなたは……誰ですか」

 「その答えを探すなら、赤坂八丁目へ行け。階段の先に、記録がある。国家は真実を作らない。ただ、隠すだけだ」

 三月二十九日午後。

 白井加奈子と志水拓海は、偶然ではなく、同じ階段を降りていた。赤坂八丁目、旧住宅公社のビル。かつて内閣調査室の仮事務所が置かれていた場所──今は空室ビルと化していたが、地下階にはまだ電気が通っていた。

 重たい鉄扉の先、埃をかぶった棚の奥に、一冊の分厚い黒いファイルがあった。

 > 『極秘:対内社会制御実験記録(94〜95)』

 その中には、以下の記述があった。

 > 「教団Xに対する情報提供及び技術支援は、制御可能な社会不安の発生と、国家治安体制の強化を目的とした政策的措置である」

 > 「目的達成後、証拠資料は焼却、関係者は分散配置、情報経路は遮断」

 志水はその文書を見ながら、拳を握りしめた。

 「……父は、この政策の“副作用”だったんだな」

 白井は、そっと声をかけた。

 「あなたが、それを発信するのよ。遺された者の声として」

 翌日、市民ジャーナルに一本の記事が掲載された。

 > 『父はなぜ死なねばならなかったのか──志水拓海が語る、国家による“計算された沈黙”』

 その記事は拡散され、ネット上の議論は一気に沸騰した。

 一部政治家は真偽を問う答弁を求められ、国会では「公安による社会実験」という表現が飛び交った。

 だが、政権中枢の男たちは、あくまで沈黙を保っていた。

 その夜、霞が関の一室で、年老いた男が一枚の写真を眺めていた。

 槙島衛──元内閣調査室の裏責任者。白髪を撫でながら、写真の中の志水幸雄をじっと見つめていた。

 「……すまんな。君の死は、予定にはなかった」

 彼の机の上には、一冊の未公開報告書があった。

 > 『社会制御工作・終結報告書(秘)』

 その最終ページには、こう書かれていた。

 > “遺された者たちが語り始めたとき、我々の任務は終わる。”

第八章 影の設計図

 一九九四年秋、赤坂見附に近い政府関連施設の応接室では、灰色のスーツに身を包んだ数名の男たちが、長机を囲んで黙然としていた。窓の外には夕陽が沈みかけていたが、その光もこの部屋には届かない。

 中央に座る男が、硬い声で言った。

 「──統制可能な混乱は、国家の秩序を強化する」

 その言葉に、誰一人として異議を唱える者はいなかった。

 槙島衛(まきしま・まもる)、内閣調査室・特別任務課、非公式にして実質的な室長。元防衛庁出身、外交安保畑で鍛えられ、戦略的思考と政治的嗅覚に長けた男。

 彼が提示したのは、社会に“仮想の敵”を作り出し、それを制御下に置くことで、統治構造を強化するという、きわめて非倫理的だが論理的な方策だった。

 「対象はどうする? 民族運動か、過激派か?」

 「いや、既存の枠に収まらない“新興宗教”がいい。カルトであり、科学であり、精神であり、政治でもある……そうした曖昧さが、制御には都合がいい」

 「制御可能か?」

 槙島は机に広げられた一枚の人事リストを指差した。

 「この中に、元化学兵器研究員が二名いる。彼らはすでに対象団体に出入りしている。我々は“技術”ではなく、“影響力”を管理する。必要なのは、“爆発”ではない。“熱を帯びた兆し”だ」

 その日から始まったのが、後に“94計画”と暗号名で呼ばれる国家プロジェクトであった。

 二〇二五年四月。

 東京・吉祥寺、古い団地の一室に、白井加奈子は志水拓海を伴って訪れた。佐伯隆一から「最後の協力者」として紹介された人物が、そこにいた。

 その老人の名は森永慎一。かつて、内閣情報調査室で槙島の直属にいた男だった。彼は今、表向きは歴史研究家として静かに暮らしている。

 「私はもう、時間がない。腫瘍が脳に転移していて、医者からは“余命三カ月”と言われたよ。だから、語る。これがせめてもの償いだと思っている」

 森永はゆっくりと立ち上がり、押し入れから小さな金属のケースを取り出した。中には、古びたカセットテープと一冊の黒い手帳があった。

 「“94計画”……国家による社会制御実験の全貌がここにある」

 白井は喉が詰まるような思いで手帳を受け取った。そこには日付と記録、そしてコードネームと関係者の名が整然と並んでいた。

 ──“光渦A”、“煙火C”、“執政T”、“掌握H”。

 拓海がページを繰ると、見覚えのある一名に目が止まった。

 > “執政T=田ノ上寛政(元内閣官房副長官)”

 「……この人、今は与党の政策調査会長ですよ。まだ現職で政界の中枢にいる」

 森永は深くうなずいた。

 「あの事件の本質は、未だに政治の奥に根を張っている。今もな。槙島だけじゃない。計画に名を連ねた連中は、その後も“制御された危機”を戦略に利用し続けてきた」

 白井は声を震わせた。

 「なぜ、そんなことを。なぜ、あれほどの被害を生んでまで……?」

 森永は静かに答えた。

 「国家は、真実を必要としない。必要なのは、“操作された秩序”だけだ。民衆の恐怖、疑念、不安……それを利用して、警察権や監視権限を強化していく。その土壌づくりに、あの事件は使われた」

 その日の夜、白井は記事を書く代わりに、録音データを携えて佐伯隆一の事務所を訪ねた。

 「証言はすべて記録しました。ですが、私一人では……これは、持ち出せません」

 佐伯は頷いた。

 「分かっている。“公開の形”を工夫しよう。ネットメディアで“分散的に”公開していく。同時に国会議員への内部告発文も手配する。“一点突破”では潰される。今回は、連鎖的に包囲するんだ」

 翌週、全国の複数メディアにて、同時にこうした文言が報じられた。

 > 「地下鉄サリン事件──“94計画”とは何だったのか。国家とカルトを繋いだ戦略文書の全貌が明らかに」

 テレビでもない、大手紙でもない。だが、それは市民たちの間に静かに広がり始めた。

 四月中旬、国会。

 野党議員の追及によって、“94計画”の存在が初めて国会質疑で取り上げられた。

 > 「内閣官房は、“社会不安を制御目的で誘発する計画”に加担していたのではないか?」

 槙島衛の名が出された瞬間、官房長官は言葉を失った。

 翌朝、槙島は六本木の高級マンションにて、何者かの訪問を受けた形跡を残して死亡しているのが発見された。死因は心筋梗塞とされたが、遺体発見時に警備カメラが全て作動していなかったことが報告され、疑惑は深まった。

 その夜、佐伯隆一が白井にメールを送った。

 > 「真実は、誰かが語ることで“形”になる。語られなければ、永久に“存在しなかった”ことになる。

 > 君は、その“第一声”を担った。だがこれは、始まりに過ぎない」

 白井は返信をせず、ただスマートフォンを伏せた。

 窓の外では、四月の雨が静かに降っていた。

 灰色の空の下、都市は変わらず蠢いていたが、どこかで何かが、静かに崩れ始めているのを彼女は感じていた。

(第九章へつづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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