松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第三章・第四章

目次

第三章 国の名のもとに

 午後三時。神田神保町の古びた喫茶店に、佐伯隆一は独り、カウンター奥の席で湯気の立たないコーヒーカップを見つめていた。

 店の名は《珈琲館ニレ》。かつて内務官僚や新聞記者がひそかに情報を交換し合った「中間地帯」だったというが、今では客もまばらな場末の隠れ家に過ぎない。

 佐伯がこの場所を好んで使うのには理由がある。機密を語るには、何より“歴史”が必要だった。

 「……午前八時過ぎ、同時多発。これは“意志”によって統制された犯行です」

 相手は警視庁公安部外事三課の元同僚──中村孝一。退官後は民間警備会社に籍を置いていたが、現役時代は教団対策の現場にいた数少ない人物だった。

 「問題は、なぜ“やらせたか”だ」

 「やらせた? ……まさか。見逃したんじゃなく?」

 佐伯は首を横に振る。

 「“無視”は無能の産物だ。“黙認”は意図の産物だ」

 その言葉に中村はしばし沈黙した。

 「去年、教団が上九一色村に“第七サティアン”を建てたのは知っているだろう。地下室を含めた構造は、密閉実験に使われていたという噂がある。だが、監視体制は弱まっていた」

 「……議員か?」

 「議員というより、“省庁間のねじれ”だ。警察庁は徹底捜査を求めたが、法務省側は消極的だった。“宗教弾圧”という言葉を恐れたのさ。しかも教団は、自民党の一部議員に“接触”していた形跡がある」

 「だから……?」

 「“内偵”を続けるために、“泳がせた”」

 その言葉に中村は息を呑んだ。

 「それが、こんなことになると……誰が想像できた」

 「想像できた者もいた。ただ、口を閉じるしかなかった」

 同じ時間帯、朝都新聞社の資料室では、白井加奈子が過去の宗教団体関連の事件記事を読みあさっていた。

 1960年代の妙信講事件、1970年代の血の儀式教団、1980年代のアメリカでの人民寺院集団自殺──国家と宗教の関係は、常に“曖昧さ”を内包している。

 そして、今回もまた──。

 「加奈子さん、電話です」

 インターンの若い記者が受話器を持って現れた。

 「名乗らなかったんですが……“上九”って」

 胸の奥がどくんと脈打った。

 受話器を取ると、低い、抑えた声が響いた。

 「……わたしはもう教団にいません。言えることは多くない。でも……上の命令で、都内の幹部が“何か”を持ってきたのは確かです。先週末のことです」

 「“何か”とは?」

 「それは……白い液体でした。匂いがきつく、目がしみました」

 「どこで見たんですか?」

 「五反田の施設です。今は閉鎖されてるはずですが、地下室がある。そこに……実験室があったんです」

 加奈子は急いでメモを取り、最後に尋ねた。

 「名前を教えてください。記事にはしません。あなたの身の安全のために、記録だけでも」

 だが、電話はすでに切れていた。

 日が傾くと、東京は少しずつ平静を取り戻し始めたかに見えた。だが、それは一種の「麻痺」だった。

 情報番組では被害者のインタビューが流され、厚労省の記者会見では「原因は化学物質による中毒の可能性がある」という曖昧な言葉が繰り返された。公安調査庁、警察庁、都庁、厚労省──誰もが責任の所在を「検証中」として逃れようとしていた。

 だが、真実はもう、地表に顔を出しかけていた。

 午後六時、佐伯隆一はかつての“協力者”に会うため、赤坂の料亭に姿を現した。男の名は岩倉。官房長官秘書官として政界に深く食い込む男であり、佐伯とは旧知の仲だった。

 「……岩倉さん。今回の事件、国家として“どう扱う”おつもりですか」

 「情報の一元化。今後の世論動向を睨んで、最終的には“単独犯行”として処理される可能性が高い」

 「教団との関係は?」

 「“不明”として押し通す方針だろう。警察庁も、法務省も、表に出せない理由が山ほどある。あなたも分かるだろう?」

 佐伯はワイングラスを手にしながら、その液面を見つめた。

 「……犠牲者は、ただの数字になりますか」

 「そういうことを言うなよ、佐伯。“国家”とは、そんなに強くもなければ、そんなに潔白でもない。だからこそ、バランスで成り立っている」

 「バランスの陰に、何人が沈むのか──」

 「沈んでいることすら、国民は知らないままに暮らしていける。それが平和というものだ」

 佐伯はその言葉に、かすかに笑った。

 だが、その笑みは氷のように冷たかった。

 その夜、白井加奈子は一通の封筒を編集局長宛に置いて帰宅した。中には彼女がこれまで追ってきた資料、上九一色村における実験情報、五反田施設の目撃証言──そして「告発者」の声が録音されたカセットテープのダビングコピーが入っていた。

 上は動かないかもしれない。記事にされることはないかもしれない。

 だが、自分が「知っていた」という記録だけは、残さねばならなかった。

 そして、夜が更けるにつれ、東京の空には再び重い曇りが広がっていった。

 誰もが口を閉ざす。

 国家も、警察も、報道も。

 だが、沈黙は決して“無”ではない。

 それは、ゆっくりと、じわじわと、第二の渦を生み出そうとしていた。

第四章 封鎖された真実

 事件から二日が過ぎた。三月二十二日午前七時、警視庁本庁舎の十一階にある捜査一課の一室では、空調の風音だけが機械的に響いていた。

 刑事・村井透は、書類に目を通す手を止め、灰皿に折り重なる吸殻を無意識に眺めた。

 ──何かが、おかしい。

 地下鉄サリン事件と名付けられた一連の毒物散布は、都内五駅における同時発生、十三名の死者、五千人超の被害者という未曽有の大惨事に発展していた。

 それにもかかわらず、現場指揮系統は錯綜し、報道発表は遅れ、操作方針は公安主導の非公開捜査に置き換わっていた。村井のもとにも、正式な“担当替え”が通達されたばかりである。

 「民間警備員の証言、どこにも上がってきてないな」

 向かいの机でつぶやいたのは、若手の木原だった。サリン事件発生時、最初に現場に駆けつけた民間駅員や警備員の中に、不審な男を目撃したという証言があったが、いずれも“確認不能”として処理されていた。

 「証言者が全員“黙ってる”ってのも、出来過ぎてる」

 村井は机の下から一枚のメモ用紙を取り出した。

 それは事件前夜、内部告発を匂わせる人物から個人のメールに送られてきた文面の控えだった。

 > 明朝、“彼ら”が動きます。あなたの手では止められない。でも、記録は取れるはずです。

 > 鍵は、「五反田」です。

 警察内部のネットワークでは決して使用されていないプロバイダからの接続。差出人不明。だが、内容があまりに符合していた。

 ──本当に、内部に協力者がいるのか?

 村井は、かつて公安で「宗教団体対策班」に所属していたことがある。

 その時に手がけたのが、オウム真理教による小規模な“薬物中毒事件”──が、正式には報告されなかった事案だった。埼玉での異臭、長野での動物死骸、それらはいずれも“自然発生”として処理された。だが、あの時点で、何かを作り、試し、隠していた連中がいた。

 「……俺はまだ降りないぞ」

 村井は小さくつぶやくと、デスクからICレコーダーを取り出した。昨晩、都庁職員から受けた非公式な電話取材の音声だ。

 > 「都庁には、事件当日以前から“対策室”が設けられていました。何の対策か? “化学テロ”です。だが公にはされなかった。何らかの“通知”が届いていたのかもしれません」

 通知──それは、内部通報か。あるいは、予告か。

 村井はレコーダーをポケットにしまい、立ち上がった。

 一方、白井加奈子は五反田駅から徒歩十五分の位置にある旧施設、通称「道場跡地」に足を運んでいた。教団が一時期“瞑想センター”として使用していた建物はすでに廃墟と化し、塀も破れていた。

 通り沿いに立ち、カメラを構えたが、どこか妙な気配がした。気温はまだ低いはずなのに、建物周囲の空気だけが濁っている。

 中へ踏み込むと、ホコリまみれの畳の奥に、鉄製の重い扉があった。

 地下への階段──。

 白井は立ち止まった。

 情報提供者が言っていた「白い液体」。ここで何かが作られていたのか。いや、それ以前に、ここは本当に宗教施設だったのか?

 彼女は意を決して、扉のハンドルを引いた。だが、鍵がかかっている。

 ポケットからマイクロドライバーを取り出し、蝶番に手をかける。数分後、鉄扉が軋む音を立てて、ゆっくりと開いた。

 そこには──。

 コンクリートむき出しの階段と、むわりとした薬品臭。壁には古びたホースとガスマスクが吊るされ、床にはガラスの破片と、小型の冷却装置の残骸が転がっていた。

 そして壁に一枚、手書きの紙が貼られていた。

 > 「成就せし後、東京は浄化される」

 筆跡は達筆というより、異様に整いすぎていた。

 彼女は恐怖を抑えつつ、写真を何枚か撮り、資料を手帳に挟んだ。だが、背後で小さな物音がしたとき、彼女は我を忘れて階段を駆け上がっていた。

 「……誰かが見ている」

 そう感じたのだ。

 その夜、白井は再び佐伯隆一と接触した。

 小さな食堂の片隅、味噌汁の湯気の向こうで、佐伯は黙って封筒の中身──例の写真と、メモ、施設の図面──を確認していた。

 「これは……決定的だ。警察の資料にも載っていない“第二実験施設”だな」

 「警察は知らなかった?」

 「知らないフリをしていたか、本当に知らなかったか。どちらにせよ、“意図的に放置された場所”だ」

 「なぜです?」

 「暴発させるためだ」

 その言葉に、白井は言葉を失った。

 「……そんなことが、許されるんですか?」

 「“国家の論理”では、起こるんだ。昭和の終わりから平成の初期にかけて、公安は教団の監視だけでなく、教団との“接点”を築こうとしていた。情報源として。反体制監視の対象として。そして、うまく制御できると思った」

 「制御……?」

 「だが、毒を飼えば、いつか噛まれる」

 佐伯はゆっくりとコップの水を飲み干した。

 「君がこの先を書くなら、本気で命を懸ける覚悟がいる。これはもう、ただの事件ではない。組織と国家と、その“無謬性の虚構”が崩れる物語だ」

 翌朝、朝都新聞社の社会部に一本の電話が入った。

 受話器を取ったのは、インターンの記者だった。

 「……白井記者はいますか。彼女が知っている“地下室”について、話がある」

(第五章へつづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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