司馬遼太郎を模倣した小説『蒼穹の翼ー山本五十六伝ー』第十二章・第十三章

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第十二章 回帰

 昭和十七年六月、大和の艦上。

 夜。海上は静まりかえり、重い雲が月を覆い隠していた。

 艦のかすかな震動だけが、眠らぬ鋼鉄の躯体に命を与えている。

 連合艦隊司令長官、山本五十六は、長官公室の椅子に沈み、机上に広げた海図を眺めていた。

 だが、その目は、もはや線や数字を見てはいなかった。

 彼の意識は、遠い過去へと滑っていた。

 ――雪だ。

 白い雪。

 それが、まず思い出された。

 少年の日、長岡の町。

 重く鉛色に沈んだ空から、絶え間なく雪が降り積もっていた。

 五十六少年は、凍てつく寒さの中、裸足に近い薄い足袋を履き、学校へと駆けていった。

 家は貧しかった。

 父、母、兄たち――皆が、慎ましく、しかし誇り高く生きていた。

 「五十六、お前は、違う世界を見てこい」

 死の床にあった母が、そう囁いた記憶がある。

 彼はそれを胸に刻んだ。

 だからこそ、海軍兵学校へ進んだ。あの、晴れやかな制服を着て。

 日露戦争が起きた。

 連合艦隊は、日本海でバルチック艦隊を迎え撃つべく、対馬沖に陣を敷いた。

 若き少尉だった五十六も、戦艦「日進」の副砲に付いた。

 砲弾が唸り、鉄と火薬と血の臭いが、戦場を覆った。

 五十六は、砲撃の衝撃で右手の指を二本失った。

 白く飛び散る肉片を見たとき、彼は不思議と冷静だった。

 「これで俺は、生涯、鉄砲玉と縁が切れた」

 誰に聞かせるでもなく、心の中で呟いた。

 あの戦争は、日本に勝利をもたらした。

 だが、五十六にとって、それは単なる国威高揚ではなかった。

 血に染まった海原。

 若者たちの断末魔。

 勝利とは、これほどの犠牲の上にしか築かれないのだと、彼は骨身に沁みて知った。

 ――それから数年後。

 軍の命令で、彼はアメリカへ留学した。

 ボストン。ハーバード大学。

 雪ではなく、冷たい雨が降る町だった。

 五十六は、異国の空気を全身で吸い込んだ。

 英語を学び、経済を学び、アメリカ人たちの自由闊達な精神に触れた。

 彼らは、勝ち誇るでもなく、卑屈でもなかった。

 議論を好み、理屈で物事を動かす。

 その活力、そのスケールの大きさに、五十六は驚嘆した。

 ある冬の日。

 彼は、ハーバードの図書館で、分厚い英文の経済書に没頭していた。

 周囲には、未来を担うアメリカの若者たちが、自由に議論し、知を競い合っていた。

 彼はふと思った。

 「この国と正面から戦うことは、国家自殺だ」

 その思いは、骨の髄まで沁みた。

 帰国後、五十六は異端児と見なされた。

 アメリカ贔屓。平和主義者。軍縮論者。

 だが、彼は意に介さなかった。

 自分は知っている。彼らは知らない。

 それだけだった。

 時は流れた。

 満州事変、日中戦争、そして、米英との対立。

 昭和十六年十二月。

 日本は、ついにアメリカと開戦した。

 五十六は、連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃を成功させた。

 だが、心の中に歓喜はなかった。

 「六ヶ月か一年は暴れてご覧に入れましょう。その後は保証しかねます」

 そう語ったとき、五十六は未来を見据えていた。

 必ず、米国の物量に押し潰される日が来ると。

 そして、今。

 ミッドウェーで、すべてが露わになった。

 大和の甲板に立ち、夜の海を見下ろす。

 潮風が、かつて長岡で嗅いだ雪の匂いに似ているような気がした。

 少年の日。

 何も知らなかったあの純粋な目。

 そして今。

 血と鉄と裏切りと、絶望を知り尽くしたこの目。

 五十六は、心の中で呟いた。

 「許せ……俺は、精一杯、生きた」

 遥か遠く、かすかな汽笛が聞こえた。

 それは、故郷へ帰る汽車の音にも似ていた。

 だが、彼にはわかっていた。

 自分が帰ることはない。

 故郷へ、家族のもとへ、生きて帰ることは、決してないだろうと。

 それでも――

 男は、歩まねばならぬ。

 己が信じた道を、ただ黙々と。

 海は、ただ黒く、果てしなく広がっていた。

第十二章ー完ー

第十三章 静かなる敗者

 昭和十七年八月七日。

 ソロモン諸島、ガダルカナル島――

 米軍が上陸した。

 滑走路を確保し、日本軍の南方制圧を遮断せんとする一手だった。

 それは、開戦以来、日本が一方的に進めてきた「南進」の流れに、

 初めて大きな楔が打ち込まれた瞬間であった。

 その報は、ラバウルを経て、山本五十六のもとにも届いた。

 彼は、報告書を手に取りながら、何度も読み返すことはしなかった。

 「来たか……」

 それだけを、ぽつりと呟いた。

 参謀たちは、声を荒げた。

 「島を奪還しなければならぬ」「滑走路を抑えねば、制空権を失う」

 戦局を語る口調は熱を帯びていた。

 だが、その言葉のいずれも、五十六の心には届かなかった。

 彼には、すでにわかっていた。

 この戦は、もはや勝てぬ。

 勝てるはずがない。

 ミッドウェーで四隻の空母を失った時点で、すでに機先を制された。

 にもかかわらず、国家は、軍は、進軍の構えを崩さない。

 撤退の二文字は、いまだ禁句であった。

 「また、若者が死ぬ」

 五十六は、心中で呟いた。

 彼は、軍艦や航空機の損失よりも、まず先に「若者」を思った。

 それが、彼の特異であり、また孤独でもあった。

 彼はかつて、ある士官に問われたことがある。

 「長官は、なぜそれほどまでに開戦に反対されたのですか?」

 五十六は、返答に困らなかった。

 「戦争の本質を知っているからだ」

 それは、若者が死に、都市が焼け、

 何も得られぬまま、国が疲弊し、やがて無に帰すという現実だった。

 だが――

 その予言めいた言葉に、誰も耳を傾けなかった。

 それどころか、彼の言葉は、政治家にも、軍中枢にも疎まれた。

 ミッドウェーを経てもなお、

 軍令部は「戦略的痛手ではない」と通達を出した。

 新聞は、「敵空母三隻撃沈」と虚報を踊らせた。

 五十六は、そうした“空虚な勝利”が、

 敗北よりも深い毒を孕んでいることを、誰よりも知っていた。

 「では、我々はどうするのか」

 参謀の一人が問うた。

 その声に、彼は静かに答えた。

 「ガ島へ行く。奪還に向かう」

 静まり返った作戦室の中で、その言葉だけが落ちた。

 「……また、時間を稼ぐだけの戦になるでしょうな」

 別の参謀が、ため息混じりに呟いた。

 五十六は、その言葉に応えなかった。

 それが真実であると、否定できなかったからだ。

 ガダルカナル――

 それは、兵站が届かぬ地獄だった。

 熱病が蔓延し、水も足りず、食糧も腐る。

 空からは米軍機が絶え間なく襲い、海上も敵艦が制していた。

 そこに、彼らは人間を送らねばならない。

 十代、二十代の若者たち。

 家族を持たぬ少年兵たち。

 彼らが、名前もない島の湿地に屍を晒す。

 「……俺は、彼らに何をしてやれる?」

 誰に問うでもなく、五十六はそう呟いた。

 答えは、なかった。

 自分には、何もできない。

 ただ命じることしか、許されていない。

 己の信念も、知識も、理想も、すべては“戦争”という名の巨大な渦に呑まれていた。

 それでも、彼は動くしかなかった。

 ――連合艦隊は、出撃する。

 夜、五十六は独り、大和の艦橋に立った。

 暗い海が、遥かガ島の方向へ広がっている。

 星一つない夜空。

 風が、生暖かく肌を撫でた。

 「この先に、何が待っているか」

 それは、彼にはもう、見えていた。

 死である。

 無益な消耗。

 国家の崩壊。

 それでも、人は命令に従い、戦場へ向かう。

 それが軍隊というものだ。

 彼は、ゆっくりと息を吐いた。

 自分は、敗者である。

 だが、声を上げぬ敗者である。

 戦を止める力を持たぬまま、進み続けることしか許されぬ者。

 それが、山本五十六の運命であった。

第十三章ー完ー

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