第十章 運命の潮流
昭和十七年(一九四二年)、春。
日本軍は、南方作戦で連戦連勝を重ねていた。
マレー、シンガポール、フィリピン、インドネシア……
かつて「無敵」と謳われた欧米の植民地は、次々と陥落した。
国民は沸き返り、政府も軍も、自信に満ちていた。
「このまま進めば、講和も遠くない」
「アメリカといえど、戦意を喪失するだろう」
だが、山本五十六は、
ひとり冷たい現実を見つめていた。
(アメリカは、まだ本気を出していない)
それが、彼の恐れだった。
戦線の拡大は、補給線の伸長を意味した。
国力を削りながらの戦いは、やがて致命傷となる。
さらに、敵の反撃も兆していた。
四月。
ドーリットル空襲――
アメリカ軍爆撃機が日本本土(東京、名古屋)を空襲し、
国民の心に深い衝撃を与えた。
爆撃の被害は小さかったが、
「本土は絶対に安全」という神話は、脆くも崩れた。
五十六は、深く憂えた。
(アメリカは、着実に力を蓄えつつある)
そして、次なる戦略を決意した。
――ミッドウェー攻略。
ハワイと西海岸の中間に位置するミッドウェー島を占領し、
アメリカ軍の前進拠点を封じ込める。
同時に、アメリカ太平洋艦隊の主力空母を誘い出し、撃滅する。
これが成功すれば、アメリカの戦意を大きく挫くことができる。
五十六は、緻密な作戦計画を立案した。
だが、その裏には、不安も渦巻いていた。
(作戦範囲が広すぎる……指揮系統が分散しすぎる)
それでも、賭けるしかなかった。
この機会を逃せば、二度とアメリカを追い詰めることはできない。
五月、
五十六は、全艦隊に向けて出撃命令を下した。
連合艦隊、南雲機動部隊、山本本隊、攻略部隊――
日本海軍の総力を挙げた大作戦であった。
彼は、出撃する艦隊を見送りながら、心の中で祈った。
(どうか、無事に勝利を――)
だが、運命は、
すでに静かに、狂い始めていた。
アメリカは、暗号を解読していたのである。
日本軍の作戦内容、出撃予定、戦力配備――
すべてを、事前に把握していた。
五十六は、そのことを知らなかった。
この情報格差が、
やがて、日本海軍に致命的な打撃を与えることになる。
六月初旬、
ミッドウェー海域に向けて、日本艦隊は進撃を続けた。
水平線の彼方に、
まだ誰も知らぬ運命の雷鳴が、静かに近づいていた。
第十章ー完ー
第十一章 作戦前夜
帝国海軍の威信を懸けた一大作戦の計画が、大本営から正式に発せられたのは、昭和十七年の初夏に入る直前だった。
連合艦隊司令長官・山本五十六は、しかし、心底ではこの作戦に疑念を抱いていた。疑念というにはあまりに重い、もはやこれは確信に近いものだった。「負ける」と、彼は内心において断じていたのである。
作戦の目標は、米太平洋艦隊の空母群をミッドウェー環礁近海に誘い出し、これを殲滅することにあった。紙上の演習では幾度となく成功が示された。しかし、五十六は知っていた。作戦の根底にある油断を、そして、軍令部の空想の上に立った楽観を。
かつてのロンドン軍縮会議以来、外交に、軍事に、五十六は常に国運を背負う苦悩を味わってきた。が、今や彼の言葉は、軍令部の「正義」に押し流され、ほとんど反響を持たぬものとなっていた。
彼は独り、長官公室に置かれた分厚い作戦図を見下ろし、苦い煙草に火を点けた。濃い煙がゆっくりと天井に昇っていく。かつては新しい日本の海軍を夢見た若き五十六も、今は、この煙のように行く末の見えない国の命運を見つめていた。
「敵は……我々の動きを、すでに知っているかもしれん」
ぽつりと独り言を洩らす。傍らに控える参謀たちが小さく眉を動かしたが、沈黙を保った。長官が独り言を口にするとき、それは議論を許さぬ苦悩の吐露であると、誰もが理解していた。
「いかにしても、やらねばなるまい」
五十六はそう言い切った。これは戦術の問題ではなかった。国家という大河の流れが、すでに彼の手を離れていたのである。彼に許されたのは、滝壺に向かって流れ落ちる水の勢いを、わずかでも和らげるべく、最後の努力を尽くすことだけだった。
作戦命令が発せられ、艦隊は続々と出撃を開始した。五月二十七日、連合艦隊主力は、秘密裡に内海を離れた。長門、陸奥といった巨艦が、微かなエンジン音を響かせながら暗闇に紛れて進む。その後方を、五十六は旗艦・大和に座して見送った。
この巨大戦艦に座すこと――それ自体が彼には苦痛だった。自ら空母に移り、航空主力と運命を共にすべきだとの思いがあった。しかし、長官が沈んでは全作戦が瓦解する。それを思えば、大和に留まることは、己が感情を殺しての選択であった。
「戦とは、かくも非情なものか」
彼は胸中で呟いた。大和の艦橋に立ち、遥かに広がる海を眺める。彼の目には、この青い海原が、いまにも血潮に染まる未来像として映っていた。
六月四日未明――
ミッドウェー近海にて、第一航空艦隊が敵艦隊を発見したという第一報が、大和に届いた。
報告を受けた五十六は、艦橋に集まった幕僚たちに命じた。
「全艦、索敵を徹底せよ。敵情を把握するまでは動くな」
慎重を期した命令だった。だが、その慎重さは、時代の急流の中では、あまりに遅すぎた。既に空母・加賀、赤城、蒼龍、飛龍の四隻は、米軍機の猛爆に晒されつつあった。

火柱が立つ。白煙が空を裂く。加賀の甲板を覆い尽くす火災の光景が、報告書を通じて五十六の胸に刻み込まれる。
「これほどまでに……!」
五十六は歯を食いしばった。彼はこの瞬間、己の敗北を悟った。兵力の損失ではない。国家として、軍として、思考を止め、空想に縋った結果として、取り返しのつかぬ敗北を喫したことを、である。
――それでも、己の責務は続く。
「まだだ。まだ……終わらせてはならぬ」
五十六は冷静を装い、命令を飛ばした。生き残った艦艇を集結させ、戦線の立て直しを図る。その背後では、すでに未来の影が忍び寄っていた。
彼は、この戦いが日本という国の運命を決することを知っていた。
それは、国家の滅びではない。精神の敗北だった。国という器が壊れるのではなく、その魂が折れる音を、五十六はすでに聞いていたのである。
六月五日、午前。
ミッドウェー沖は、すでに地獄の様相を呈していた。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍――。
連合艦隊の中核を成すべき空母群は、ことごとく沈み、あるいは火に包まれて浮かぶのみだった。
この惨状を、山本五十六は艦橋に立って冷徹に受け止めた。
顔色一つ変えず、彼は幕僚たちの報告を受け、次の命令を整然と与え続けた。
その姿に、若い士官たちは「さすがは五十六閣下」と胸を打たれたが、本人の胸中には、怒りも絶望も、とっくに燃え尽きた後の虚無だけがあった。
彼は知っていたのだ。
これは偶然でも不運でもない。必然だったのだと。
敵米軍は、情報を掴んでいた。
連合艦隊の動きを、手のひらで弄ぶかのように待ち受けていたのである。
暗号を解読されている可能性――それを五十六は以前から懸念していた。
だが、懸念するだけで、手を打つ時間も、機会も、彼には与えられなかった。
「情報を握る者が、戦争を制する」
その鉄則を知りながら、実行できぬまま、彼はこの破局を迎えたのだ。
それは、指揮官としての、最後にして最大の敗北だった。
艦橋の一角で、通信将校が青ざめた顔で報告する。
「飛龍も、損害甚大にして、戦闘不能とのことです」
五十六は、深く息を吐いた。
まるで肺の奥から、重く淀んだ血潮を吐き出すかのように。
「よろしい。全艦、撤退せよ」
その命令は、もはや戦う意志を示すものではなかった。
これ以上の損害を防ぎ、後の戦局に一兵でも多くを残すための、苦渋の決断だった。
幕僚たちは沈痛な顔でそれを聞き、速やかに指示を伝えた。
だが、彼らの中には、内心で五十六を責める者もいた。
「なぜ、もっと早く決断しなかったのか」
「なぜ、航空隊を守り切れなかったのか」
責める言葉は、誰も口には出さなかった。
出せば、それは五十六だけでなく、帝国海軍そのものの敗北を認めることになるからだ。
大和は、静かに南へ転針した。
六月六日、午後。
五十六は、作戦指揮を第一段階で中止する旨を、正式に打電した。
長官席に座る彼の姿は、いつもと変わらぬ威厳を保っていた。
だが、部下たちの目には、その背中が、奇妙なほど小さく見えた。
それは、単に年齢や体格によるものではなかった。
国家というものの、巨大な運命の重みが、一人の人間の肩に全て圧し掛かっている。
それを目の当たりにした若い将校たちは、ただ黙って頭を垂れるしかなかった。
夜。長官公室。
五十六は、執務机の上に置かれた一通の書簡を見つめていた。
それは、彼自身が起案し、軍令部に提出すべく用意していたものだった。
題は「今後の戦争指導に関する意見」。
敗北を認め、速やかに講和の道を探るべきだ――そう書かれていた。
彼は、それを出すべきかどうか、何度も自問した。
出せば、確実に彼は失脚するだろう。下手をすれば、命すら危うい。
しかし、彼の中には、迷いはなかった。
「未来に向かって、正しき道を選ぶことこそ、武人の本懐である」
それが、彼の信念だった。
深夜、彼は一人、甲板に出た。
大和の巨大な艦影が、月明かりの下に沈黙している。
海は静かだった。まるで、すべての血と鉄と火が嘘だったかのように。
五十六は、海に向かって、小さく頭を下げた。
「許せ」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
沈んでいった空母群の乗組員たちか。祖国か。あるいは、自分自身か。
その夜、五十六は一通の私的な電報を打った。
信頼する旧友、堀悌吉中将宛だった。
「国、既に亡びたりと覚悟す。されど、我ら、今なすべきことをなさん」
それは、すべてを悟った男の、最後の闘志だった。
数日後、大本営はミッドウェー敗北の事実を国民に伏せたまま、戦局の維持を命じた。
山本五十六は、作戦責任を問われることもなく、連合艦隊司令長官に留まった。
それは、彼にとって、慰めでも、救いでもなかった。
ただ、死ぬまで責任を取り続けよという、無言の命令に他ならなかった。
彼は知っていた。
この国は、もう後戻りできない道を進んでいる。
自らも、その道の先頭を歩かねばならないことを。
やがて、その行く手には、自らの死が待っているであろうことも、
彼は、静かに、確信していた。
第十一章ー完ー
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