司馬遼太郎を模倣した小説『蒼穹の翼 ―山本五十六伝―』第一章

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第一章 新潟の空

 越後の冬は長い。

 白く分厚い雲が山間に垂れこめ、町の屋根という屋根にはどっしりと雪が積もっていた。明治十七年の冬、新潟県長岡。凍てついた空気のなかで、山本五十六は生まれた。

 高野家は、かつて長岡藩の下級藩士だった家柄である。維新後、俸禄を失い、今では旧藩士たちと同様に細々と生計を立てるのみだった。五十六の父・高野貞吉は医者でもあり、学問にも長けていたが、旧士族の誇りを手放すことはなかった。

 五十六は六人兄弟の末子だった。生まれた時、長兄たちはすでに家を出、あるいは事業に失敗し、家計は火の車だった。

越後長岡という地は、寒風の吹きすさぶ雪国である。

だが、この地が内に抱くものは、豪雪ではなく、烈風のような精神であった。

河井継之助を筆頭に、武士道を極めんとした者どもの系譜は、世が明治となっても、細く長く、この地に脈打っていた。

その越後に、ひとりの少年が生まれた。

名を、高野弥太郎という。

高野家は、旧長岡藩士の家柄である。だが、決して家格が高いわけではなく、むしろ中堅以下の、慎ましい家筋であった。

ところがこの少年は、早くも幼少のころから、ただならぬ才気を漂わせていた。

一を聞いて十を知る。しかも、剛胆でいて繊細。

「この子は、ふつうではないぞ」

と、近隣の者どもは言い合った。

ときに明治三十年。

長岡にもう一つの家があった。名門・山本家である。

こちらは、旧藩の重臣筋に連なる家系であり、士族としての誇りを失っていなかった。

だが、その山本家に、跡継ぎがいなかった。

当主・山本家貞は、齢を重ねてなお子に恵まれず、憂いの中にあった。

家は人が継がねばならぬ。

家格、由緒、そればかりではどうにもならぬ。

このままでは、山本の名も、長岡武士の血も絶えてしまう。

そこで、白羽の矢が立ったのが、高野家の末子・弥太郎であった。

高野家から見れば名誉であり、

山本家からすれば、血を継がぬゆえの苦渋の選択であった。

弥太郎、十歳。

彼はこのとき、高野姓を離れ、山本家の養子となった。

名も改めて――

山本五十六。

この名には、深い意味がある。

五十六という数字は、父・高野貞吉が五十六歳のときに生まれたことに由来する。

これは奇妙なようでいて、どこか象徴的でもあった。

あたかも、齢老いた父の残した最後の火が、

のちの連合艦隊司令長官という烈火となって燃え上がることを、

歴史があらかじめ仕組んでいたかのように。

山本家に入った五十六は、武家としての気骨と学問をたたき込まれた。

長岡藩の士魂をその身に受け、

やがて帝国海軍の士官として、運命に立ち向かっていく――。

この改姓の一事こそが、

日本という国の、ひとつの運命の歯車を、静かに回しはじめた瞬間であったのかもしれぬ。

 「これからの世は、剣槍の世ではない。知恵と工夫の世になるだろう」

 父の言葉が、雪の中で静かに、少年五十六の心に根を下ろしていった。

 長岡は、戊辰戦争で激しく戦った町である。少年は、雪に埋もれた町を歩くたびに、焼けた城下や討死した先人たちの無念を、自然と胸に覚えるようになった。忠義とは何か。国とは何か。小さな疑問が、彼の胸中に宿り始める。

 やがて五十六は、旧長岡藩士たちの私塾「米百俵講座」で学び始める。

 ここで彼は、国語、数学、歴史、英語といった学問を貪るように吸収した。だが、何よりも五十六を捉えたのは、「世界は広い」という思想であった。

 「西洋の国々は、今や海を越えて、銃と蒸気船で天下を制している」

 講師たちが語る世界の情勢に、少年の心は震えた。長岡の雪に閉ざされた町など、小さな点にすぎないのだ。世界は、もっと広く、もっと動いている。

 彼は密かに決意した。

 ――いつか、世界を知る男になろう。

 

 そのためには、学び、そして強くならなければならない。

 運命は、そうした少年に味方した。1894年、日清戦争が勃発すると、国中が熱狂の渦に包まれる中、五十六は軍人を志す。

 進路を定めた五十六は、海軍兵学校を目指した。なぜ陸軍ではなかったのか。

 少年時代から抱いていた世界への憧れが、彼を海へと導いた。陸軍は国土を守るが、海軍は世界と戦う。五十六は、まだ小さな自分の志を、大きな時代の波に乗せようとしていた。

 明治三十三年(1900年)、五十六は、見事、海軍兵学校に合格した。

 そして、広島湾に面する江田島に赴く。

 ここで彼を待っていたのは、熾烈な鍛錬と、血の滲むような学問だった。

 兵学校は、軍人というより、武士の再生工場のようだった。礼儀、規律、忠誠心、そして死ぬ覚悟を叩き込まれる場所である。

 五十六は、身体が特段大きいわけでもない。

 剣道の試合では、たびたび負けた。だが、負けてもなお目を輝かせて立ち上がる、その粘り強さは、同期たちの間でも知られていた。

 上級生たちからの苛烈なシゴキ。

 容赦のない教官の体罰。

 疲労と飢えと、寂しさ。

 ――それでも、俺はやる。俺は、世界を見に行くのだ。

 夜、灯りを消した後の兵舎の中で、五十六は拳を握りしめて耐えた。

 やがて彼の努力は結実する。

 海軍兵学校を成績優秀で卒業した五十六は、少尉候補生となり、日本海軍の一員として本格的な人生を歩み始める。

 ――時は、世界が嵐に向かって突き進む、そんな時代だった。

 ロシア帝国の南下政策、ヨーロッパ列強の植民地支配、そして日本は、まだ小さな島国に過ぎなかったが、確かに大海へと漕ぎ出す準備を整えようとしていた。

 そして間もなく、日本海において、運命的な戦いが訪れることになる。

 後に五十六自身が、「海軍精神の結晶」と讃えた、あの戦いが。

【第一章ー完ー】

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